小野寺崇良「「草とる民」の記 みくに奉仕団と皇居奉仕 ①」(『維新と興亜』第3号)


皇居勤労奉仕の発祥
 「皇居勤労奉仕」という行事がある。
 説明すべくもなかろうが、有志が皇居内の清掃作業などに従事するものである。現在は連続した四日間と定式化され、年間数千から数万人の規模で参加者がいるという。
 皇居勤労奉仕は,昭和二十年五月に空襲で焼失した宮殿の焼け跡を整理するため,同年十二月に宮城県内の有志が勤労奉仕を申し出たことが始まりであり,それ以降,今日まで奉仕を希望する方々をお受けしています。
宮内庁Hpにもこのように記される通り、皇居勤労奉仕の発祥が宮城県の人々であったとは、よく知られている所である。だが、昨年の今上陛下御即位に関連した勤労奉仕の人気過熱ぶりに相反して、「発祥」の物語は見過ごされてきたように思う。また、「勤労奉仕」の一面のみを見ており、彼らの考えにまで立ち入っていないものも多い。
 「宮城県内の有志」たちの、同郷の後輩として、微力ながら先輩方の事績を書き記しておきたい。

「スルスル」とあがった米国旗
 七十五年前、日本は戦争に敗れた。
 ミズーリ艦上での降伏文書調印から六日後、昭和二十年九月八日にマッカーサー一行は東京へ進駐する。八月十七日より、日本では東久邇宮内閣が発足していた。今回の主役の一人である長谷川峻は、首相と共に官邸にいた。
 「長谷川君、こちらへ来てごらん」と外を指さす首相に声をかけられた長谷川は、窓を覗き込んだ。
…指さされたのは、青い屋根が一部焼けおちたアメリカ大使館の白い建物であった。時あたかもその前庭では、数人の白い制服をきたアメリカ兵が、軍楽隊の吹奏にあわせて、国旗を掲揚しようとしていた。わたし達の見ているうちに、国旗はスルスルとあがって行ったのだ。
 マッカーサーが米国大使館に入ったこの日、占領国米国の旗が初めて東京に翻った。
 明治四十五年生まれの長谷川は、この内閣で国務大臣などを兼務した緒方竹虎の秘書官であった。中野正剛の書生として過ごしながら 早稲田大学へ進学、卒業後は中野の招きで九州日報に入り、編集局長を務めていた。
 長谷川は、敗戦国日本の首相と共に、いとも容易くあがってゆく米国旗を眺めていた。
 東久邇宮首相は国民の声を広く聞こうと、手紙での意見を募集する。一日平均数百通もの投書の整理と、首相への報告役を務めたのが長谷川だった。彼の胸中には、敗戦を契機に、反射的に「反天皇」へと転換してゆく国民の姿が印象付けられていた。
 きのうまで東条万万歳の狂騒曲が、今日からは国をのろい、皇室さえうらむ方向に転換するのをみて、連合軍は、世界は、なんと日本の国民性を評価するだろうか。(略)国のいのちといわれる皇室が目のあたり式微しているときに、涙をそそがざる国民の反射作用は、戦勝国民といえども、敗戦民族の卑屈さとしてわらうだろう。

「みくに奉仕団」の誕生
 東久邇宮内閣が発足から二か月足らずの昭和二十年十月五日に総辞職すると、長谷川は郷里・宮城県栗原郡の若柳町に帰った。
 後に長谷川も参加することとなる「みくに奉仕団」発祥の地である、栗原郡(現栗原市)は、宮城県北西部に位置している。内陸であり岩手県と隣接する地域だ。海産物がない分、現在でも多くの農産物が名物となっている地域である。
 そのころ、長谷川の十六歳年配で、もう一人の主役である鈴木徳一は、具体的な行動に移っていた。青年団運動の幹部として活動していた彼は、終戦直後の皇居前を訪ねる。
土堤には雑草がぼうぼうと生え、お堀の水は古池のやうに、よどんで、青松越しに拝した神々しい宮殿の緑青色の瓦も爆弾で炎上して、穴のあいたやうに、青い空だけが光つてゐた。
 占領軍のMPが立ち、荒れ果てた皇居を見た鈴木は、愕然としながら、郷里へと帰る。
 「勤労奉仕の発端は、宮城県の青年が皇居の瓦礫撤去をしたことから」と一般に言われているが、彼らの当初の予定は瓦礫撤去ではなかった。
 鈴木は、「青年たちによる草刈」を構想する。大正年間、明治神宮外苑の造園にあたって、地方の青年たちの奉仕が大きな力となったことが、鈴木の脳裏には浮かんでいた。「全く生活の目標といふものを失つてしまつた青年たちに、少なくとも何か精神的な基盤なり拠りどころを与へるだらう…といふ切なる願ひ」もあったと後に記している。
さらに栗原郡は、戦時中に行われていた、堆肥増産促進のための草刈コンクールで、全国優勝するほどの地域。草刈りならば、彼らも腕に自信があった。
 鈴木は、隣村の鈴木惣一志波姫村村長、同村に塾を開いていた菅原兵治らと共に奉仕団結成を議論し、激励を受けたうえで、愈々実行に移る。
 このタイミングで、名称は「みくに奉仕団」と決まった。「みくに」の名には、「御国」「皇国」などの漢字があてられる案もあったが、時局に留意し、且つ分かりやすさを優先した形となった。
 このころ、東京から帰ってきた長谷川も合流する。
彼ら奉仕団を記録したエピソードとして著名な、侍従次長の木下道雄の文章には、「(筆者注:奉仕当日に)皇居の坂下門の門外に、何の前ぶれもなく、突然六十人ばかりの青年の一群が現れた」(「皇居勤労奉仕発端の物語」)と記している。だが、実際には、その前月である十一月には鈴木と長谷川が宮内庁を訪ねて許可を得ており、段取りは整えていた。
 この時の願い出も「外苑の草を刈らしてほしい」というもの。ここでは、筧素彦総務課長が応対した。父は、東京帝大で憲法学などを講じた、筧克彦である。
 許可を得ることができた後は、団員集めに移る。
長谷川の郷土若柳町にて、折しも開催されていた青年学校長会議で、鈴木らは教員たちに参加青年の推薦を依頼するも、だれも口を開こうとしなかった。奉安殿の破壊、教科書修正などが当然に実行されていた当時の社会環境は、「皇居奉仕」などと言い出せる空気ではなかったのだ。
 だが数日後、「是非この青年たちを…」と申し込みが相次ぐ。鈴木の回想によれば「その中の一人は、教師を追はれてもいいから参加させてくれ…と血書まで副えて申込んで来た」という。
また、長谷川によれば、このような申し出もあった。
 さらにある老人は、もう日本には武器もない、自分の倅も軍人として行くことは出来ない、平和の日本において、宮城に詣でることが悪いとてお叱をうけるむきがあるならば、それこそ平和時代の戦死、陛下からおほめの言葉なき殊勲です、骨はこの老人が拾いますから是非おともさせて頂きたいと申出るものさえあった(傍点部引用者)
結局、志願者は予定していた六十名を優に超える。
 しかし、ここで喜んでもいられない。前月には徳田球一ら政治犯の釈放、同月には財閥解体に向けて政府とGHQが動き出すなど、まさに占領軍は「何をするかわからない」状況下である。どこまでも、その目を気にしなければならなかった。そのため、後に咎めを受けることのないよう、教員らには「そもそも計画自体を知らせなかった」という体裁をとることとなる。
 この時、五人の教え子を派遣した高橋小一は、後にインタビューに応じている。公教育に関わる立場から、自身は参加を見送った高橋だったが、「万一のときには、生涯かけて教え子たちのたちの骨を拾ってやろう」。その覚悟のもとの派遣であったという。
 昭和二十年十二月六日、出発にあたって参集した彼らの服装はばらばらであった。「団体行動」として注意をひかないよう、服装は統一せず、多くの青年たちは家族と水盃を交わした上で駅に集合した。
 長靴、地下足袋、学生服にジャンパーなど、皆が不揃いの姿格好で、水盃を交わして上京するとは、今となれば滑稽な話といくらでも言えよう。だが、「平和時代の戦死」を果たしても皇居に向かおうとした彼らの覚悟とはいかなるものだったか。ここに想いを致さねばなるまい。
 このようにして誕生した、みくに奉仕団員六十二名。最年長の鈴木が四十六歳、長谷川が三十五歳で続き、他に数名の三十代のほかは、殆どが二十代前半の青年男女であった。ここに、記録係として早稲田大教授の木村毅が加わった計六十三人で、皇居坂下門へと向かった。

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