『維新と興亜』第8号に掲載した「渋沢栄一の『第二維新』─大御心を拝して」(坪内隆彦)の一部を紹介します。
〈渋沢栄一が九十一年の生涯を閉じたのは、昭和維新運動が台頭しつつあった昭和六(一九三一)年十一月のことである。一見すると彼の人生は昭和維新運動とは無関係に見えるが、彼は終生「明治維新の貫徹」「第二の維新」を願っていたのではあるまいか。彼は水戸学で培った國體思想、尊皇思想を堅持し、常に日本の本来あるべき姿を思い描いていたからだ。
本誌第五号「渋沢栄一を支えた水戸学と楠公精神」で述べた通り、若き日の渋沢はペリー来航以降の激動の中で尊皇攘夷思想に目覚め、水戸学を崇拝し、藤田東湖の『常陸帯』や『回天詩史』を愛読した。渋沢の國體思想が終生変わらなかったことは、晩年に著した『論語講義』にも明確に示されている。渋沢が幾多の企業設立、育成に取り組んだのも、大御心を拝して、国家の生存と国民生活の安定に寄与するためだった。
本稿では、渋沢が教育勅語や戊申詔書などの詔勅といかに向き合ったかを紹介したい。そこからは、大御心に応え奉り、国民精神の発揚を願う渋沢の姿が浮かび上がってくる。……渋沢は、明治三十五(一九〇二)年に埼玉県出身学生を助けるため埼玉学生誘掖会を設立した。「誘掖」とは、導き助けるという意味である。彼は、寄宿舎を運営したり、奨学金を貸与したりすることによって、学生たちを助けようとしたのである。明治三十八年には七カ条の寄宿舎「要義」が定められたが、その最初に掲げられたのが、「教育勅語ノ聖旨ヲ奉体シ、至誠以テ君国ニ報ユヘシ」である。「要義」発表式では渋沢が「要義」を朗読した上で、次のように述べている。
〈抑も教育勅語たる、日本臣民の常に肝銘して忘る可からざるものなり。謹んで其の聖旨のあるところを惟るに始めに於て国家の根本たる可き教育の淵源を示し、更に人倫五常の有るところを説き、国民の義務を明にせられたるものにして、時の古今、国の東西を問はず堂々不磨の大律なり。諸子は日常善く此の旨を体して修学の羅針盤とす可きなり〉