古谷経衡氏が対米自立派のトランプ大統領待望論について書いている。(http://blogos.com/article/169061/)
トランプは確かに日本に米軍基地を置くさらなる代償を求め、それに応じなければ撤退も視野に入れているようだ。対米自立を論じてきた身としては、その実現が案外間近に迫ってきていることに対する期待感もないではない。だが、ふと思うのはこのようなトランプの考えに乗る形での対米自立は、果たして本当に歓迎すべきことなのだろうか、ということだ。
対米自立は必然的に自主防衛を伴う。したがって自ら国を守る覚悟が政治家にも国民にも求められる。トランプの意向だからということでなされる対米自立には、この覚悟が欠けている。そのような態度で国が維持できるはずがない。
そもそも「アメリカの意向だから」と言う理由で「対米自立」をするのは本当に「自立」なのだろうか。むしろアメリカに翻弄されて自ら政治・外交方針を決められない、「自立」とは程遠い政治ではないだろうか。
むしろ吉田茂の時代のようにアメリカに屈従するふりをして経済的利益をせしめようとする態度のほうがはるかに自主的態度に思えてくるから不思議だ。
日本がアメリカに対し死んだふりを繰り返しながら、対米自立の機会を虎視眈々とうかがい、そんな中でようやく訪れた僥倖であるというならば話は違う。だが実際はそうではない。突然突飛な発言をする大統領候補が現れ、予想に反し大いに支持を得ているらしいと言うだけのことである。
外圧でしか政治が動かないというのは望ましいことではない。その場の雰囲気に流され、何らの国家意思も、その意志を実現するために周到に準備を行う戦略も、忍耐強く実現の機会をうかがうしたたかさも、今の為政者にはかけらもない。政治は国会議員の不倫および問題発言や、野党の離合集散など、目も当てられぬ状況であるが、それは政治が深刻になっているからではない。むしろ政治が深刻、真剣な性質を失って選挙という名のお祭り騒ぎにうつつを抜かし、与野党で政争ごっこを繰り広げることでかろうじて衆目を引きつけているだけのことである。政府の発言に信用はなく、議会は愚弄され、何ら人々の興味を引きつけるに足りないのである。やむなく政争ごっこで馬鹿騒ぎをしているだけの連中に、国家意思など期待すべくもない。
対米自立にアメリカの意向など二の次である。まず日本がどうあるべきで、どうしたいのか。それが明快になって手段の議論が始まる。まずはそれすらもできていないという現実を見据えることからではないだろうか。
なんか中田耕斎さんの対米論を読んでると、日本人が自立するにはまずアメリカへの復讐心、怒りの感情を取り戻すのが先決なんじゃないかと思うようになりますね。
死んだふりを繰り返しながら臥薪嘗胆し対米自立の機会をうかがうにしても、根っこにアメリカへの反発心、怒りがなければ事大主義に流されるだけでしょうし。
日露戦争で日本がロシアに勝つという栄光を手に出来たのも、三国干渉で受けた屈辱と怒りを官民ともに忘れず共有できたことが大きかったように思います。
Nさん
コメントありがとうございます。「復讐心」、「怒り」と言うのが良いのかはわからないですが、日本が対米自立をすべく強い意志を持ちそれに向かって行動することが為政者には求められると思います。
三国干渉では「臥薪嘗胆」を最初に行ったのは陸羯南の『日本』です(書いたのは三宅雪嶺)。『日本』としては国力全般の増進を意図して論じていたのですが、もっぱら軍事費の増強になってしまったことには忸怩たる思いがあったようですが、屈辱を晴らすという国家意思はある程度共有できていたように思います。
たしかにそういう部分が現代日本には足りない所ではないかと感じます。