福本日南『元禄快挙録』


 年末には毎年のようにテレビドラマになっている「忠臣蔵」。言わずもがなであるが、江戸時代に起きた赤穂事件を題材とした物語である。吉良上野介に切りかかったことに因り切腹させられた浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助らが決起し、吉良を打ち取り、浪士らも切腹となる話である。江戸時代、事件が起こった翌年から歌舞伎等の演目に取り入れられるほどの大きな話題を呼んだ事件であるが、実は江戸時代には幕府の弾圧を逃れるために室町時代の話であると偽装するなど、さまざまな潤色を加えざるを得なかった部分が多かった。大石内蔵助は大星由良助となるなど、登場人物の名前も変えられていた。

 現代のような史実に近い形での物語となった忠臣蔵のブームは、実は明治時代から始まっている。そのブームを作った人物の一人が、福本日南である。福本は福岡県出身。陸羯南と新聞『日本』を興した人物の一人で、三宅雪嶺などと並んで陸が不在、体調不良の時等に社説を担当できる人物の一人であった。陸の病気、死により『日本』の経営者が変わると、旧『日本』系の同人は一斉に同紙を離れることになった。多くは三宅雪嶺とともに『日本人』に合流、『日本及日本人』と改題することになるのだが、福本は地元の九州日報に行くことになる。この九州日報は玄洋社系の新聞で、古島一雄など『日本』関係者との縁も深い新聞である。この九州日報に連載されたのが、『元禄快挙録』であった。『元禄快挙録』は日露戦争後の武士道礼賛の空気に乗って大いに注目され、忠臣蔵が日本社会に根付くことになったのである。『元禄快挙録』は現在岩波文庫化もされている。

 『元禄快挙録』はその題からもうかがい知れる通り、赤穂浪士が主君の仇を討つために立ち上がった行為を義挙とたたえるものである。それは書き出しの「赤穂浪人四十七士が復讐の一挙は、日本武士道の花である。」(岩波文庫版上巻15頁)という一節からもうかがい知ることができる。だが一読してすぐ気づくことは、福本は義挙礼賛の信条を顕にしつつも、極めて冷静かつ正確に史実を記録し、伝えようとする立場を崩していないということである。現代史学の目からすれば間違いもあるようだが、俗論も多かった赤穂事件の実相を伝える書物として、原題でもその意義は薄れていない。

 『元禄快挙録』の筋は現代人には半ば常識化した「忠臣蔵」の物語なのでいちいち紹介していくことはしないが、読んでいてわたしの心に留まった部分をいくつか触れていこうと思う。

 一つ目は、赤穂浪士の決起に際し、山鹿素行の思想的影響を重視している点である。実際大石内蔵助は山鹿の門弟だったわけだが、山鹿とのかかわりや山鹿自身の思想の紹介に多くの頁を割いているのは印象深い。
 二つ目は吉良上野介を守るために戦って戦死した家来に対しても称賛を惜しんでいないということである。「吉良家名誉の士とも言うべきである」(下巻138頁)と短いながらも最大級の賛辞を送っている。一方で吉良上野介を見捨てて逃げた人間への評価は辛辣で、「卑怯を極めた」(下巻139頁)と罵っている。

 儒学的教養を基に書かれた書物は、自らの心魂をいかに作るか、いかに腹を決めるかという観点が自然に表れることが多い。本書もその例外ではない。印象的な一説をご紹介したい。

「天下の危険は、山にもあらざれば、川にもあらず。実に人情反覆の間にある。昨日までは肩を並べ、席を列ね、いずれ劣らぬ忠勤の士と見えた赤穂の藩臣らも、主家の断絶に会うて、魂魄を失い、会議のたびごとに、十人減り、二十人減り、寔に頼み尠ない有様を現出した。しかしながら志士は溝壑に転ずることを忘れず、勇士はその元を喪うことを忘れぬ。真の志士、真の勇士は、国家播蕩の際において見れる」(上巻129頁)

「ここに至って自分は長嘆してやむ能わざるものがある。彼八人の逃脱連といえども、ここに至るまでには、他の尊敬すべき忠義の諸士と異ならざる幾多の辛酸を嘗めてきたに相違ない。殊に毛利小平太のごときは、一挙の前日までも、衆と労苦を分ち来たのである。而うしていざ討ち入りという場合に臨み、その節を失うたので、ついに永く不忠不義の人となった。けだし彼らはこれによって五年か十年か生き延びたであろう。しかしながらこれがために永く歴史上に光輝ある生命を喪い、しかのみならずその五年か十年の残生の憂苦、懊悩、悔恨、慚愧のうちに悶え、この世からして焦熱地獄の底に陥った。『元禄快挙録』を読んで、士の最も留意すべきところは、実にこれらの辺にある」(中巻307頁)

 福本日南の『元禄快挙録』は忠臣蔵を掘り起こすことになったわけだが、明治時代の国粋主義者たちがこうした歴史や日本文化の掘り起こしに大きく貢献した例は多い。富士山を「日本の山」と称えた志賀重昂、日本美術の岡倉天心などが有名どころである。福本日南の「忠臣蔵」もその一つとして数えることができる。国家は「想像の共同体」であるという議論がある。だがそれは標準語やマスコミの力で無から生み出されたかのようにみなすのは誤りである。特に日本のような国家の場合はそうである。近代国民国家はある日突然人工的に模造されたものではない。前近代の大きな遺産と準備過程を経て成立したものである。そこに西洋近代の影響は否定できないだろう。だが同時に日本の伝統を踏まえ、移行していくことにこだわったのもまた明治時代の特徴である。西洋近代に倣わなければ生き残っていけなかった時代にあって、いかに日本の伝統を残しながら生き残っていくか暗中模索した時代でもあった。

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