武士と商人―その精神的反抗―


 世界の有力者の租税回避地を利用した課税逃れについて記載されているパナマ文書が公開されたことが世界的に話題を呼んでいる。タックスヘイブンで税金逃れをしている大企業や富裕層は、日本は世界第二位で、そのほとんどが法人だという
 自民党をはじめとして日本はカネを稼ぐことにうつつをぬかすような国づくりに精を出し、社会に還元することを見失っている。そもそも法人は株主に利益を還元するためだけに存在するのであって、理論上は他の何物にも責任を負っていない。法の網を潜り抜け、グレーゾーンでカネを稼ごうが、それにより株主に還元できていればそれが是とされるのである。法人は他のいかなる都合も考慮しない。法人の傍若無人がまかり通っているのが現代社会である。それは今に始まったことではない。大窪一志は『自治社会の原像』を、日本社会から「現場の力」がなくなってきていることを指摘することから始めた。「社会」が市場に取って代わられ、「現場」の権限が奪われ、人々が助け合う余地が狭められていった。日々の仕事が官僚的になり、人に付いた仕事を誰にでも代替可能なものにしていったことが原因である。その結果、かえって社会はギスギスした息苦しいものとなっていった。人々の間にあったはずの共同関係はいつの間にか雲散霧消し、物が人を使う世の中が訪れ、職場は荒廃した。仕事への愛情は失われ、会社員に求められるのはどこからか降りてきた「上」からの指示を粛々と実行し、「成果」を挙げることのみになったのである。その方が「成果」を挙げ、「成長」を達成するには効率的であったが、その反面職場は崩壊し、人々の交情は失われた。会社員を続けても、恋人はおろか一人の友人もできない時代となったのである。

 突飛に聞こえるかもしれないが、実は武士道はそうした時代への反抗ではなかっただろうか。武士道は太平の世に生み出されたものである。武士道は、江戸時代太平の世が訪れ、勘定方が出世し、日々の仕事が官僚化していく中で生み出された武士による日常に対する精神的反抗である。武士道と後に称される思想が生み出された時代である江戸時代は、同時に商人道も説かれた時代であった。山本常朝が武士道の代表的書物である『葉隠』を書いた時代と、石田梅岩が石門心学で商人道を説いた時代はまったくの同時代である。そして両書が書かれた江戸中期は、日本社会において資本主義が始まった時代でもある。
 江戸時代同様に、あるいは江戸時代以上に武士道が説かれた時代が、明治時代である。明治期の反資本主義的感情は、旧武士層によって担われた。中江兆民は足軽身分の子であるし、山路愛山は幕臣の家に生まれている。三宅雪嶺も陸羯南も武士層に属する。ただし山路家は天文方であり、三宅は藩医の家柄、陸は茶道師範の父を持つなど、武士の中でも周辺に属する家柄であることは興味深い。少し時代を遡っても、反資本主義的な言説を残している藤田東湖や吉田松陰、西郷隆盛など、思い浮かぶ人物はみな武士層である。社会主義者で言えば、堺利彦は没落士族、高畠素之も士族、木下尚江も士族である。ただし幸徳秋水と山川均は士族ではないようだ。社会主義とは少し違うが、田中正造も士族ではない。調べ出すときりがないが、明治時代の思想と階層の関係は注目すべきだろう。ただし、資本主義的な言説を唱えた人物を調べても、福沢諭吉や渋沢栄一は幕臣、田口卯吉も士族、若き日は資本主義思想家だった徳富蘇峰も士族であり、あまり深い因果関係を考えすぎても間違えてしまうだろう。ただ、初期の反資本主義に間違いなく大きな影響を与えているのは武士道である。
 少し出自の話を続けよう。武士道にこだわり、「士道不覚悟」と味方を粛正していった新選組は武士ではなかった。神風連の乱を起こした熊本敬神党は武士でも下級の身分に属し、上級士族は横井小楠など西洋文明を受け入れる方向に向かっていった。上級士族だからこそ武士道へのあこがれのような感情がなかったのかもしれない。
 出自の話をすれば、山鹿素行は浪人の子、山崎闇斎も浪人の子と言われる。浅見絅斎は医者の子である。武士道にとって重要な思想を打ちだした人物が、これほどまでに武士の出自でないということはもっと注目されて良い。笠井潔は武士と商人を対比して商人を擁護する形で『国家民営化論』を書いている。だが実は武士道は武士でない人物によって醸成されてきたということも可能なのである。そもそも武士道は、乱世の時代には謀略・だまし打ちなども知略の結果と称賛されてきた。それが太平の世になると、「卑怯なふるまいをしない」といった倫理性を帯びたものに変容していく。源平合戦から鎌倉時代にかけて、あるいは戦国時代から江戸時代にかけても同様の思想的変遷をたどっている。後世のわれわれが思い浮かべる武士道の印象は太平の時代に生まれたもののほうである。謀略の称賛は、戦略性に富んではいても思想性には乏しいからであろう。
 三宅雪嶺は『偽悪醜日本人』の「悪」で、日本人は正義を心に抱かないと非難する。正義ではなく、時流や強者に尾を振って媚び、文明開化となればすぐ掌を返して文明開化に熱狂する。海外の文物を導入することに必死になり、国内興隆に目を向けない。調和を考えず、商人は公益と称して己の利益を増大させることに熱中している。努力を軽視し、貧民を軽んじ、巧言やお世辞が上手いものだけがいい思いをする。いかに彼ら豪商が華美な装束をまとい、豪華絢爛な住まいに身をおき、洋行を自慢しようとも、彼らは卑しい人種である。彼らを排撃し、社会に重きをおかせないようにすべきだ。米国流の拝金主義に乗っかり、個人の利害に汲々として、公共の大事は腐敗を究めるのである。士族の風尚美徳と、公共のために死を視る精神により維新は誕生したのであるから、士族を重きにおくべきであると主張した。当時の三宅は旧士族への期待を持っていたわけだが、それは商人道を批判したわけではあるまい。むしろ武士層に利害を超えた精神的価値を重んじる姿勢を見出し、これを称賛したのである。
 あるいは、幸田露伴が資本主義的風潮に対し江戸の職人気質を礼賛したこともあった。また、明治二十年代に条約改正や欧化主義に抵抗した国粋主義者の社会主義感覚はむしろ儒教の「仁」の政治の実行という意味合いがあった。「社会主義」は「個人主義」の対極とみられ、むしろ日本の国体に合うものと受け止められた。高畠素之がいわゆる社会主義から国家社会主義に「転向」し、上杉愼吉などと連携していくようになることを非難するような議論は日本の社会主義史を踏まえない見解だろう。もちろん細かい意味での意見の変遷はあったに違いない。だが、上杉が国家と社会は分離できるものではない、すなわち国家主義と社会主義も分離できず、社会主義的思想が国体の清華を発揮するのに適したものだ、と述べるとき(田中真人『高畠素之』203頁を引用者意訳)、それは明治の国粋主義者の社会主義論ととても似通っており、私には陸羯南の「国家的社会主義」が重なって見えてくる。
 社会主義もまた国民への博愛の情として理解されたのであり、革命思想としては理解されなかった。社会主義が「階級闘争」と「プロレタリアート独裁」の共産主義になるのは明治末から大正時代にかけてである。それまでは社会主義とは博愛、現代でいえば福祉を重んじるというくらいに受け取られたのと同時に、資本主義の興隆によって起こった道義の荒廃を救うものとして、孟子の文脈で社会主義は理解された。幸徳秋水をはじめ初期社会主義者はみな耶蘇(片山潜、木下尚江、山川均、大杉栄、荒畑寒村、安部磯雄)か孟子の信奉者(幸徳秋水、堺利彦、河上肇)であった。武士道もまた強者の弱者への横暴を嫌いむしろ弱者へのいつくしみをたたえる思想であった。この点で三者は互いに結び付いていた。社会主義は唯物主義とも言われるように西洋では耶蘇の信仰と相性が悪いのだが、明治日本においてはそうはならなかったのである。
 幸徳秋水は社会主義を実現する目的を武士道の実現においた。社会主義は経済的平等と同時に理想的人間像の提示といった作業が行われてきた。幸徳の場合、武士道の精神こそが目指すべき人間像だった。幸徳は武士道を振起する手段はないか、と聞かれたら社会主義の実現にあると答える、とした(『市場・道徳・秩序』151頁)。同様に陸羯南も、「士族社会」に自主独立の気風があるのは世禄という恒産があったからだとした(同前155頁)。桶谷秀昭は、この頃の社会主義を「修身」の延長だと捉える。そのうえでそこから革命思想への転換を、「自分が未知の何ものかに変らなければならないといふ強迫観念に似た衝動」であったと評した(『昭和精神史』88頁)。
 幸徳秋水は社会主義を武士道の復活として述べていたというが、武士道とは志を立て、自分は商人とは違うという自覚を持ち、利益を超えた「国家全体の価値」を想い行動することであった。武士道は社会主義の始まりであると同時に国粋主義の源流でもある所以である。
 幸徳と国粋主義者の関係は絶えることなく続いていた。陸羯南は自らの新聞『日本』に、幸徳の著書の広告を出し、三宅雪嶺とともに足尾銅山鉱毒事件において、幸徳とともに田中正造を支持する言論活動を行っている。幸徳の遺著となった『基督抹殺論』には、三宅雪嶺が序文を寄せている。これは大逆事件で幸徳が逮捕されたのちに出版されたものであり、そこに序文を寄せるなど並の覚悟、交友ではできないものであろう。そこでは、幸徳は不忠不孝の名のもとに死に就こうとしているが、窮鼠と社鼠のいずれかを選ぶのか、と問われている。窮鼠とは追い詰められて決起した幸徳であり、社鼠とは社に巣食う鼠、君側の奸のことである。そのいずれを選ぶのか、と問うたわけである。
 幸徳は大逆事件を起したとされているが、皇室と社会主義は矛盾しないとも述べている。社会主義とは社会の平和と進歩と幸福を重んじる思想であり、そのために有害な階級を廃そうというものである。明治維新によって四民平等が達成されたことも、それにあたる。また、古来名君と呼ばれた人物は皆民のために尽くした人間である。故に仁徳天皇のように、民の幸福を自らの幸福とされた、祖宗列聖(歴代の天皇)の事績は、決して社会主義に悖るものではなく、むしろ社会主義に反対するものこそ国体に違反するのではないかと述べた(「社会主義と国体」『幸徳秋水全集 第四巻』、筆者意訳)。この幸徳の論理を、当時の社会に受け入れられるためのレトリックに過ぎないと思う人もいるかもしれない。そういう側面もあるかもしれない。だが、小林多喜二が仁徳天皇の大御心の話を母親に話していたように、必ずしも社会主義者が即マルクス主義による革命を考えていたとは言い切れない面もあるのではないか。
 中村勝範『明治社会主義研究』によれば、幸徳はマルクスやクロポトキンを真に理解していたとは言えないという。そうかもしれない。幸徳の教養の基本は漢籍であり、西洋の理論は漢籍の教養による発想を理論化するのに参考にした程度だったのかもしれない。
 山路愛山も、社会主義を墨子の兼愛や堯舜の道にも通じるものとみており(「社会主義管見」『明治文学全集35 山路愛山集』46頁』)、明治社会主義の一つの特徴ともいえる。坂本多加雄『近代日本精神史論』によれば、山路愛山は「平民主義」に基づき歴史を叙述していたが、一方で自身は士族階級の出身であり、平民の台頭は士族の没落であるということを重く受け止めざるを得なかったという(講談社学術文庫版35頁)。山路は武士層の官僚化と士農工商の階層間の移動が少なかったことを江戸時代の「堕落」「老化」を見てこれを批判している。福沢諭吉に限らず、山路や陸も明治社会を実業の時代と捉え、各人が商売、生産を通じて国家に貢献することを主張した。だが福沢とは少し異なり、山路や陸は実業に携わることを名誉とみなさない士族出身の青年層に対し反政府的ナショナリズムを説くことで、実業に携わることに意味を与えていった。政府から恩給をもらわなくとも自らの身を立て、ときには政府に異議申し立てもしつつ国家に貢献する青年像を描いたのである。
 また、山路は陸についても、「三宅雄二郎氏、陸実氏も亦名を会員名簿に列し、殊に陸氏の如きは深き興味を社會主義に有し、其主宰する日本新聞に於て人間は自然の状態に満足して已むべきものに非ず。弱肉強食の自然的状態を脱し、強もまた茄(くら)はず、弱も茄はざる一視同仁の人道を立てゝ自然の運行以外に別に人間の天地を開くは是則ち社会主義の極意なるべしとの意を述べたり」(「現時の社会問題及び社会主義者」『明治文学全集35 山路愛山集』370頁)と回想している。この回想だけでも陸の社会主義理解に強い儒学の影響を見てとることができる。
 晩年の上杉愼吉は、「貧乏でなければ本とうの愛国は出来ぬ」(『日本之運命』189頁)とまで言い、無産者を救済しようとする。「我が無産の貧乏人は、燃ゆるが如き愛国心を持つて居るけれども、今は上流の人々の我が儘に憤激して、動もすれば非国家主義に陥らんとする傾向になつて居る彼等は横暴なる資本家地主を恨むのである、不肖は其れは当然であると思ふ、而して資本家地主を悪むの情強きが為め、思はず社会主義に乗ぜらるゝのである(中略)経済上の不平苦痛は、彼等を駆つてそこまで連れて行くのである、気の毒なるは我が忠良なる無産の愛国者ではないか、其の心中の煩悶を酌んでやらなければならぬ」(同28頁)という。富豪は金儲けのために国家を使う。国家を害し、同朋を傷つけようとも、金の為なら何でもする。神ながらの日本は鬼畜の世界になってしまった、道徳も何もないではないかと嘆くのである(同37頁)。
 ここまで戦前の社会主義についてみてきたが、彼らが貧しき人々を救うべきだと考えていたと同時に、国内で荒廃した道義の復興を考えていたことが伺える。道義の復興を彼らが考えたとき、念頭に浮かんだものの有力な一つに武士道があった。ところで笠井は武士と商人を対比して商人を擁護したが、笠井自身は一つの主義を重んじる武士的な部分を残しているようにも感じられる。堺屋太一や竹中平蔵のような商売性しか感じられないような人物とは異なる。
 少し蘊蓄が長くなった。さきほどからたびたび笠井の『国家民営化論』における武士と商人の対比を批判してきたが、一方で敗戦後の日本に限定して考えれば、太平の世になったにもかかわらず武士道の倫理性は忘れ去られて、かといって商人道があるわけでもなく、ただ利益だけが追求される世の中になったのである。葦津珍彦はこのことを、「敗戦後の日本国は、こんどは国中にただ一人の武士も残存させないことにした。しかし時代は流れ移ってゆくけれども、現世に激しい戦闘の消え去るようなことは、その兆候すらも見えていない今日である」(葦津珍彦『武士道』48頁)と表現した。ある意味現在は利益を得るための謀略渦巻く(戦国時代などと同様の)争いの時代なのである。資本主義による競争の激しさは倫理性を打ち捨てなければ到底生き残っていけぬような時代へと、われわれをいざなったのだ。

 現代は、武士道も商人道も廃れ、官僚的な法人の都合が独り歩きしている。このような事態に対する精神的反抗ののろしを上げなければならない。一人一人が自己の裁量、自己の発想に基づいて日々の仕事が行われる世の中でなければならない。日常の小さな基点から反抗が必要だ。

 「人間のすべての社会的活動を、その努力を、その創造を否定するならば、人はただ、生まれ、食べ、交尾し、子供をうみ、そして死ぬてんとう虫と異なるところはない。だが、人間はてんとう虫ではない。人間を「万物の霊長」と称する古典的解釈は、けっしてまちがいではなかった。虫は自然の意志のままに生きそして死ぬ。人間は自然の意志に従うと同時にこれに逆らって、生き、死に、しかも、ついに大自然の意志を完成するのだ。
 大義のために死し、わが名を青史に列ねようとする努力―これこそ人間として誇りうるただ一つの人間的努力である。自分はまちがっていなかった。迷う必要はない。」(林房雄「青年」『現代日本文学館28 林房雄・島木健作』112頁)

 林房雄が述べたのは、ただ生まれ、食べ、交尾し、子どもを産み、死んでいくだけで甘んじることのできない人間の姿である。人間は己が全体に寄与している実感を求めるものなのだ。
 われわれの人生は次々と襲い来る世事に翻弄され、時に喜び、時にいら立ち、ままならぬ難題に煩悶し、苦しみ、もがき、それでもやっとこやっとこ歩いている。しかし、それは己の一身のことばかりに夢中になり、周りに思いをいたすことができない様でもある。おそらく今のわれわれの人生はそういったままならぬものに満たされており、何かが変だ、おかしいと思いながらも、その正体が見抜けずに仕方なく惰性のままに日々を繰り返している。
 労働者は、あるいは会社員は、と言い換えてもよいが、自分の人生、自分の生活、自分の運命をほとんど自分で決めることができない。休みの日も労働時間も仕事内容も、勤務先も、取引先さえもどこかの誰かが勝手に決めたものに左右されている。市場競争の結果、自営業よりも雇用者の形態のほうが「効率的」だと結論が出たのであるが、その結果、「各人が自由に競争できる」などという建前は全くの空語となった。自分自身の生活を、運命を、他の誰かに翻弄されて終わるのか。その無力感は無視できないものがある。
 自己決定など幻想だと知っている。だがそれでも今の会社員生活はあまりにもその行動すべてを他人に支配されすぎている。あるいは「他人」という人物に支配されているのではないのかもしれない。労働力は商品である。してみれば資本の論理に支配されているのである。人を馬車馬のごとく働かせた挙句、馬車馬のごとく働かせてくれたことに感謝するよう強要しようという雰囲気が会社にはある。いかにも不気味であり、こういう感覚をとても肯定する気にはなれない。競争は、地位や貧富で人を差別しようとする人間の嫌な面と分かちがたく結びついている。会社という組織は、その競争の嫌な面を増幅する装置である。業務を指示監督する立場である以上に、上司を人格的に逆らい難い存在に仕立て上げようとする。そこは、一度目をつけられたら、後々までささやかれ、ことあるごとに嫌がらせを受ける密告社会である。人の足元を見ることにばかり長けていて、相手が逆らい難いと見るや途端に無法な要求を恥も知らず押し付けてくる。「結婚したり子どもが出来たら転勤させられる」という噂はその典型的な例である。「会社」とか「職場」という利益社会のもつ怖しさは会社員として働いたことがあるものは多かれ少なかれ自覚していることである。自らが稼げればほかの連中はどうなってもよいと考える冷酷で残忍な人間が、会社の上層部を形成している。いや、彼らの人格がそうだというよりも、彼らも何かに駆り立てられてそういう方向に走らざるを得なくさせられている。そのことが資本のもつ最大の問題であろう。
 カネの為に身を屈する人間は、心の底ではカネを憎んでいる。手にした札びらは、屈辱の数でもあるのだ。
働くとは、元来そういうものではなかったのではないか。社会を構成するのは、国民一人ひとりであって、決して会社や資本ではないはずだ。それらは、便宜的に置かれたものに過ぎなかったはずだ。ところが、その道具のほうに振り回されて、肝心の一人ひとりがその生活を失って働く道具のように扱われていることに疑問を感じなければならない。生産も消費も、企業あるいは資本にとっての利用価値で計られ管理され、それによって生活が左右されてしまう。こんなことはおかしいではないか。大事なのは各自の尊厳であって、決して会社などではない。
 われわれの生活は日々何かと忙しいものだ。だがその忙しいことを誇る気にはどうしてもなれないのである。暇人を見つけ、それを「活用する」などと称して労働の場に引きずり出そうという大きなお世話を焼こうとするのが「忙しい」人間である。有限の人生の中で、そもそも何のためにせわしく飛び回るのか考えなければならない。しかし、それを考える余裕があるのは概して暇人の方なのである。せわしない生活には、自分の生活を自分で決められない苦しさがある。もちろん、自己決定など幻想である。しかしそれは、会社や資本に支配される生活を正当化するようなものであってはならない。平凡な人生を気楽とみなすのはどうなのか。志を果たし得ない人生は、ただ生活苦だけがある針のむしろかもしれないのである。いずれにしても、生活に自己決定権がないのは問題だろう。
 われわれは自分の生活を自分で決めたいのである。自分の志、自分の運命を他人に押し付けられるのはうんざりである。資本が自ら肥え太るために使役されるのは、もうごめんなのである。
 かつて人々は賃労働者になろうとした。家族やムラの論理から逃れるためである。しかし、賃労働者になっても新たな拘束や服従を強いられるだけであった。自ら生産手段を持った農民や家族的自営業者は、子どもを会社員にさせようとする。それは子どもをプロレタリアあるいはプレカリアートにすることと同じである。自ら生産手段を持たない者はどこまで行っても奴隷同然である。ここまで言ってはいけないのかもしれないが、わたしは会社員にまっとうな幸せなど訪れるはずがないと思う。

 「今の若者は無気力だ」という。そういう側面もあるかもしれない。だが問題は若者に限ったことではない。無気力は社会全体を覆って、人々から生き生きとした活力を奪っている。マニュアルと規制に縛られた日常に気力、活力が入り込む余地はない。よって活力が萎えてしまうのだ。
 産業革命以降、資本主義の進展により「公」の絶対性は減少していったが、同様に「私」の固有性も失われていった。「私」は努力と研鑽により作り出される無二の存在ではなく、凡庸で無個性で誰にでも置き換え可能な存在に変わっていった。
 資本主義は、人々を結びつけていた伝統的で細やかな関係をことごとく金銭的関係に置き換え、敬虔な信仰、武士道の美学、町人道さえも無力化させた。医者、文学者、教師に対する人々の尊敬の念を剥ぎ取り、彼らを売上だけを気にする賃労働者にした。教師を労働者のようにみなしたのは日教組によるものという決めつけがなされたが、日教組は幸いにも大した影響力を持っていない。むしろ資本主義的感覚の広まりのほうが大きいのではないだろうか。
 自由放任により社会が発展するなど空想に過ぎない。すでに明治四十一年刊行の山路愛山『現代金権史』においてすら、「政府の世話焼きは余計の沙汰なりと憤慨したる所にて、其実電信も政府に掛けて貰ひ、鉄道もこしらへて貰ひ、学校も政府の脅迫に依りて出来、銀行の営業振り、簿記法の記入方、乃至チョン髷を切るべきことまで政府の世話を受けて渋々進みたる人民が自由放任を口にしたりとて、それは親掛りの子息が贅沢にも親の干渉に不平を鳴らすに殊ならず」と揶揄されているのである(『明治文学全集35 山路愛山集』46頁)。自由放任などと主張しても、政府のインフラを使い、政府に教育された労働者を使っているなど政府にことごとく依存しているではないか。そんなのは親に育てられていながら親の干渉に文句を言っているのと同じだ、というわけである。
 個人には寿命があるが法人には寿命がない。今の日本は企業ばかり肥え太る法人資本主義と化しているが、それは市場の命運が法人の都合に左右されて、個人では如何ともしがたい性格を持っているということである。法人は裕福であるが個人は貧しい。個人は「法人の都合」を叶えるためだけに使いつぶされていくだけの人生しか持ち合わせていない。それは経営層であっても同じことである。
 わたしのことを左翼的だと思う向きもあるかもしれない。資本主義批判や会社批判に対してはそういう眼で見られたこともある。だが、国民の生活に思いをはせない愛国者などあり得ない。本当に日本と言う境界、日本人という所属を重んじるならば、生活に苦しむ同胞に対するまなざしがあってしかるべきだ。
 戦後、右翼・保守派によって「戦後思想を克服する」ことが唱えられた。たしかにそれは重要だが、目的ではない。挑発的な言い草をすれば、そんなものは人生の目的たり得ないごくちっぽけなものである。日本の歴史、文化、伝統に参与し、その偉大な伝統に、自らも黄金の釘を打ち付けて次代に託すことこそ、人生の大目的にふさわしい。
 日本人が各人その美質を発揮するためにも、経済問題は克服されなければならない。この大目的の前では、右翼と左翼の違いは大した問題ではない。無論皇室に害をなそうとするような思想は到底受け入れることはできないが、そういったものを除外すれば、右翼と左翼には共通する点も多く、お互いの意見を参照し、より高めることができるように思う。このブログで以前にもたびたび述べている通り、右翼と左翼と言う分類自体が冷戦期にしか通用しない代物なのだから、いわゆる「右翼的」、「左翼的」と称される思想に元来共通点が多いことはむしろ当然のことなのだ。

 今後の日本社会をよりよくしていくための対策はいくつか考えられる。政策的には家族的自営業を支援し、大企業に対する法人税の増額、累進課税の強化、タックスヘイブンを利用した税金逃れの防止、地産地消の推進、フランチャイズの出店制限による地方の特色を生かした街づくりなどである。
 また、精神的には、武士道、商人道に倣いマニュアルよりも各自の精神の働きを重んじることだ。
 人は、一人一人に宇宙を持っている。人と人との交流は、宇宙と宇宙の交錯でなければならない。それは法人の都合に囚われぬ日常を大事にすることから始まる。人と人との交情は決してマニュアル化できないものである。誰にも替えがきかない、文字通りかけがえのないものを大事にすることが求められているのである。

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