一介の草莽として論ず


 儒書の中でも基本の部類に入る本に『孝経』がある。儒学は独裁を擁護する思想のように言われることもあるが、それが間違いであることは『孝経』を読めばよくわかる。『孝経』は親子関係だけではなく、君臣間の関係についても語った本である。
 『孝経』の「諫争章」では、子は父の言うことにそのまま従うのが孝だろうか。そうではない。諫めてくれる人がいるから道を違わないのである。君臣の関係も同じであり、不当、不善、不正があれば必ず子は親に諫言しなければならない、臣は君に諫言しなければならない、と言っている。ここで重要なことは上位者の絶対化を禁じていると共に、君臣間と家族間を同様にみなしているということである。この家族主義的国家観は東洋に独特のものであり、欧米流の社会契約的国家観とはまったく質を異にする。日本ではこのような有機的国家観のほうがなじむと思われるが、それは日本人の伝統にこの家族的国家間が根付いているからである。例えば穂積八束は国家と国民の関係を、個人が契約を結ぶような社会契約的国家観ではなく、家族のような国家となることを望んだ。

 皇室に対しての諫言を不敬だ不敬だと騒ぎ立てるよりも、皇室の問題点を進んで指摘するのが本当の忠である。余りにも不敬だと騒ぎ立てすぎれば、あえて危ない橋を渡り皇室に諫言をなすものはいなくなってしまう。そのとき皇室は裸の王様となってしまい、ゆっくりと衰微していくであろう。そのようなことがあって良いはずがない。

 天皇陛下が諫言を善しとしなければ、進んで罰を受ける覚悟は持つべきであろう。だが同時に周りがご叡慮も明らかになる前から勝手に忖度し、不敬だと騒ぎ立ててつぶそうとするのは如何なものか。それこそ陛下の御簾に隠れて人を撃つ類の人間であろう。敬不敬の前に一介の文人としてあなたはどう考えるのか。わたしが関心を持つのはそこである。

 皇室への言及を「言論の自由」などというつまらぬ概念で正当化すべきではない。何を言ってもよい言論の自由などこの世にいまだに一度も現れたことなどないではないか。皇室に限らず、ある種のタブーがあるのはむしろ当然のことである。しかし、たとえ一部敬を欠く表現があったとしても、その者が皇室の永続を願う限りその言葉は尊重されるべきである。言葉狩りから何かが生まれることはない。

 人の言葉を抜き出して、不敬だ反日だと騒ぐのは運動家の理屈である。わたしは運動家は信用しない。運動家に真摯な思索などあるはずがない。

 読者はどう思っているかわからないが、自己評価としては「歴史と日本人」は皇室の話題が少ないと思う。出てきても、それは皇祖皇宗から続く日本の伝統と文化、民族の信仰を体現する存在としての皇室、天皇であって、具体的な人格を持った天皇についての言及はほとんど行っていない。それをもって「お前は西尾幹二に影響を受けた天皇抜きのナショナリストだ」と言われたこともある。西尾幹二の影響は否定しないが、たぶんわたしも西尾氏も「天皇抜きのナショナリスト」ではない。まず一介の草莽としてどう考えるかを重んじているからである。
 頭山満は「一人でいても寂しくない男になれ」と言ったが、ある者の権威に寄りかかることは、一人になれない人間になるということだ。これに関してはわたしも自分ができているかは心もとないが、少なくともそうあるべきだという廉恥は備えているつもりである。

「一介の草莽として論ず」への2件のフィードバック

  1. 国に諌臣ありてその国必ず安く、家に諌子ありてその家必ず直し、と言いますからねえ。
    君主に対して、礼をもって諌言を呈すること、
    そうした諌臣、争臣の大切さは漢籍をはじめとする古典でよく説かれることです。
    南朝の忠臣と称えられる楠木正成、北畠顕家も後醍醐天皇の政道の乱れを厳しく諌め、佞臣を退けることを勧めました。
    そしてその諫言を容れられなくとも、帝のために戦いに赴き死んでいきました。
    ご皇室を敬い陛下の忠臣を自認する人は、楠木正成や北畠顕家のごとくあってもらいたいものです。

  2. Nさん
    コメントありがとうございます。
    楠木正成などとわたしが書いていることはとても同列には扱えない代物で畏れ多いことです。
    ただ、不敬で黙らせるだけでは議論の深まりはないなと思っただけで…。

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