言葉は水物


 ものを書く仕事をいくら積み重ねても、決して楽にならないと書いたのは小林秀雄だが、本当に書くという行為は難しい。
 同様に、読むという行為も難しい。読んだつもりでいた本を再読した際に、今まで気づかなかった側面を見出すことなど日常茶飯事である。
 書くからには誰かに読まれ、受け入れられることを望んでしまうものである。だがそれを念頭に置きすぎると書けなくなっていく。文章には毒がなくてはならない。それはいわゆる毒舌と言うことではない、人を死に追い込むような、突きつける牙がなくてはならない。そんな牙を失った微温的議論に価値はない。

 今年三十一歳になり、少しづつ年を重ねてきたが、年齢とともに書けなくなってきている気がするし、読めなくなっている気がする。それは世事に翻弄される人間の世迷いごとでしかないが、読めもしない、書けもしない人生に意義などあるのだろうかと思ってしまう。しかし読み書きには暇な時間が絶対に必要なのである。忙しい人間からはわかりやすい文章は生まれるかもしれないが、良い文章は生まれない。

 書けない時はどう頑張っても書けない。言葉が自分の中から出てくるまで必死に待たなければならない。ある日種から芽吹くように飛び出してくる言葉を逃さないように書き留めておく必要がある。言葉は水物である。書き留めておかないと、せっかく生まれた言葉は誰にも読まれることも書き留められることもなく消えてしまう。

 もし、本を書ける機会がいただけるのならば、読む人が誰かに伝えたい思いが湧き上がってくるような本を書きたい。それがもしできたらものを書く人間の冥利に尽きるであろう。

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