なじめぬ自己


 近代に入って、自由競争による市場の発達が生活を向上させ、衛生的な環境をもたらし、乳児死亡率を下げ、繁栄をもたらしてきたが、同時に人間を不幸にもした。人々は商品の奴隷、いや、人の人生そのものが労働と言う名のもとに商品となり、すべてのものが市場価値に置き換えられそれ以外の評価軸を許さない。学問も思想も政治も芸能もスポーツも、世の中のあらゆるものが市場に飲み込まれ、そこでしか生きられなくなっている。伝統も、民族の誇りもカネ次第と言う世の中になってしまいつつある。そんな現代に対して、生きづらさを抱えている。

 人生を削り、何のために生まれたのかもわからぬままいいように使役せられ、気づけばもう若くない年齢に差し掛かり、病巣を体内に抱え込むようになる。会社員の人生にはその程度の未来しか待ってはいない。そうなれば後はゆっくりと死に向かって歩むだけである。それが市場に翻弄されるほとんどの人生である。
 ではそうでないものは優雅な生活を送れているかと言えばそうではない。株価や不動産価格に一喜一憂し、責任をかぶされ、せっかく稼いだ金を使う時間もない。妬み嫉みにさいなまれ、何をしてもしなくても悪いように解釈され、憎まれ、馬鹿にされ、金づるとしか思われず、カネがなくなれば誰も残らない。誰一人をも幸せにせず、その不幸の負のエネルギーを食って市場はいつも通り動いていく。
 チャップリンが歯車に巻き込まれる様で市場に翻弄される人間を風刺したが、現代はまさに制度が先に立ち、その制度を維持していくために人間が犠牲になっている。そのような生活である。たかだか会社勤めをしているに過ぎない人間を「社会人」などと呼びならわす現代日本人は市場が大好きなのであろう。わたしは嫌いだ。市場に塗れなければ一日とて生きられぬ自分の人生をも呪う。

 市場も好かなければ多数決の民主制にもなじめない。多数派になるようなものはたいてい碌なものではないことは経験上知っているし、それだけの人の意見を糾合できるようなものは何らかの嘘が含まれているに違いないのだ。だから多数決で勝つものはすべて間違っている。極端な話、わたしが考えた案であったとしても、それが多数派になってしまったらそれはもう偽物である。

 さりとて共産主義に共鳴することもできない。資本主義、民主主義、共産主義は同じ穴の狢であり、近代思想の三兄弟とも呼ぶべきものだが、そのどれもが近代思想に基づく偽りの考えである。

 わたしの居場所などどこにもない。別に居場所が欲しくて書いているわけではないが、少なくとも安易な答えを求めて脊髄反射のような態度しか取れないような人は軽蔑する。不敬だ、反日だ、売国奴だ、戦争法案だ、軍靴の足音が聞こえる…。人をアイコンで判定するようなまともでない人間の言葉に耳を傾ける暇はない。

 ほとんど連想ゲームのようにただ思うことをだらだらと書いて結論もなく起承転結もないひどい文章だが、とりあえず今思っていることとして残すこととしたい。

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