折本龍則「新しい国家主義の運動を起こそう!③ 内田良平翁の親子主義」(『維新と興亜』第3号)


国家社会主義の危険性
 前回までに、明治国家における宗廟と社稷の乖離について書いた。すなわち、明治の草創期においては宗廟と社稷は牧歌的に調和し、不平等条約の改正と国会の開設が民党において不可分の目標であったように、国権と民権の主張は両立していた。その際、両者の蝶番となっていたのが尊皇という基軸であった。国権─尊皇─民権の三位一体である。そのことは、社稷自治を唱えた権藤成卿が国家主義者内田良平翁率いる黒龍会の同人であったことにも象徴的に示されているように思える。
 しかし資本主義的近代化の進行につれて国家は資本と結託し、社稷を疎外し出したため、両者は齟齬乖離を来たした。そのことは、権藤が関東大震災に際して政府が無政府主義者の大杉栄を虐殺した大杉事件に関して、内田翁が「国家のためによろこばしい」と発言したことに激怒し決別したことにも象徴的に示唆されているように思える。資本主義的近代化は、国内においては急速な都市化と農村の荒廃、都市における労使対立の激化を招き、対外的には、資源獲得を求めた国家の帝国主義的性格を強めた。かくして宗廟と社稷は相克するに至ったのである。
 こうしたなかで、玄洋社・黒龍会的な伝統的国家主義に対して、新たな国家主義を提唱したのが津久井龍雄であった。津久井は、社稷を宗廟に前置する権藤の農本自治思想を厳しく批判しつつも、これを完全に否定し去るのではなく、国家主義との綜合止揚を図ることによって、「正しき日本主義」としての国家社会主義を目指したのであった。また津久井は行動の上においても、「実力はあるが理論がない」(津久井)玄洋社・黒龍会系の伝統的国家主義と握手するため内田良平翁率いる大日本生産党に入党すると共に、社会大衆党の赤松克麿等と共闘することで、国家・宗廟と社会・社稷の再統一を図ったともいえる。
 とはいえ、理屈の上でそういうのは簡単であるが、逆の立場から言えば、津久井の国家社会主義は下手をすると無機質な官僚支配やファシズムに転化し、彼の意図に反して、国家と個人の中間にある地方社会や家族といった伝統共同体としての社稷を破壊しかねない危険性を孕んでいた。大日本生産党における内田良平の門下で、神兵隊事件に連座した大東塾の影山正治塾長は、自身の自叙伝である『一つの戦史』(展転社)のなかで、国家社会主義者を次のように評している。

昭和七年四月二十一日
 昨日と今日、石川準十郎氏らの国家社会主義学盟が中心となり「全国学生代表者会議」と云ふのを開いた。招待されて出席して見た。十一大学から来てゐた。国守建の変名で出た。激しい論争をした。決して負けない。彼ら国家社会主義者に欠けてゐるものは尊皇の信仰であり、しみじみとした祖国の山河と歴史に対する愛情である。詩がない。理屈が多い。そして冷い。ある程度までは一緒に行けるかもわからぬが、それ以上は到底行けないと思ふ。
七月五日
 寮に於て国家論の研究会。テキストは石川準十郎氏の『マルクス社会主義より国家社会主義へ』。講師石川氏。同じく高畠門下にありながら、佐久井氏(津久井龍雄)と石川氏とでは全然違ふやうだ。佐久井氏は国家社会主義を超えようとして居るのに、石川氏は全く国家社会主義を固執しようとしてゐる。石川氏は全然国史を顧みない。だから国家一般としてしか日本を考へない。要するに日本ナチスを考へて居るのだ。この行き方は充分警戒されねばならぬと思ふ。即ち神代と国史とから切断された国家一般としての日本だけを考へる考へに立つ行き方は結局革命の行き方であって維新の道とは思へない。石川氏と此の点で若干論じ合ったが、あまり通じないやうであった。

内田良平翁と親子主義
内田良平
 影山塾長が言うように、国家社会主義を超えようとしている津久井と、国体に基づく国家を考えない石川等の国家社会者は区別して捉えるべきであるが、「詩がない、理屈が多い」国家社会主義の危険性は否めない。内田翁は国家主義を唱道したが、しかし対露開戦を主張した『露西亜亡国論』は発禁に処され(ちなみに幸徳の『帝国主義』は発禁されていない)、数度の逮捕投獄を経験するなど、その立場は常に国家によって弾圧される側に身を置いてきた。その内田にして、したがって、宗廟と社稷の綜合止揚は津久井のいう「新しい国家主義」者よりも、むしろ歴戦の経験によって国家の持つ暴力性や官僚支配の怖さを骨身に沁みて感じていた内田翁等伝統的国家主義者の方にこそ切実な実感として共有されていたのではないか。
 我が国において国家は価値中立の権力機構ではなく、三種の神器に象徴される天皇の君徳によって道義的に善化された存在である。その国家に統治されることによって、社稷は国家と調和し得た。しかるに近代資本主義とその根底にある利己的個人主義は、そうした国家と道徳、経済の調和を破壊した。内田翁は、昭和6年に発表した大日本生産党の『主義・政綱・政策解説』において、次のように述べている。
 「我が国体は肇国以来、精神と物質即ち道徳経済の不二一体を以て組織せられ、その範を大廟に示されて居る。内宮は精神的示現、外宮は物質的示現であって、内宮の天照皇大神は公明正大の顕現神であり、外宮の豊受皇大神は国常立尊にして、国土万物を生成化育せらるゝ生産の顕現神である。この二宮は大廟として一宮なる所に道徳経済の離るべからざる関係を示され、人類は精神を喪失すれば肉体用をなさず、肉体亡ぶれば精神も働きをなす能はざる如く、道徳敗るれば経済成立せず、経済破壊せらるれば道徳もまた支持する能はざるの理を顕はして居るもので、これは国体組織を如実に示教せられたるものである。」(『祖国維新と大日本生産党』(中央情報通信社)ここでいう内宮に顕現された国家の道徳こそが宗廟であり、外宮に顕現された経済こそが社稷である。そのことは『国体本義』の最後に掲げられた『大日本国体々系図』に、天御中主神を天祖とし、皇民一姓・君民同治を中心軸とする左右にはっきりと「内宮宗廟」、「外宮社稷」と記されていることからも明らかである。
 そこで、この宗廟と社稷の一体不二に立つ「大日本主義」の道義の根幹を成すのが、我が国における「親子主義」の伝統である。翁曰く、「我が国の家族、社会、国家の諸制度は古来ことごとくこの親子主義を本として組織せられて居たものである。雄略天皇の『義は君臣にして情は父子の如し』と仰せられしその御遺詔を大正天皇御即位の際にも宣らせられたのもこれが為めである。しかるに西洋文化模倣以来、この親子主義の情操は漸次薄らぎ行き、制度法律すべて個人主義を以て制定せらるゝに至り、個人主義に伴ふ利己的自由思想権利思想の主張となり、その思想より我利々々強欲なる所謂資本横暴主義を生じ来り、金を認めて人間を認めない世の中となったのである。」ここでいう親子主義とは、小集団である家族における親子の関係を指すのみならず、「皇民一姓」による皇室と国民との関係を包含している。すなわち天御中主神から神皇一貫している皇室と国民の血族的結合によって君臣父子の道義が一体化しているのである。
 したがって資本主義的近代化を止揚し、道徳経済即ち宗廟社稷の再統一を図るためには、我が国伝統の親子主義を再生する他ない。翁曰く「現在我が国の悩める病患は此の個人主義による制度習慣であって、これは世界列国人の苦悶に苦悶を重ねつゝある病患であり、これを救済するの道は唯だ大日本主義の道徳、即ち親子主義を基礎としたる新制度を建設し、その制度によって経済組織を改造するの外ないのである。即ち大日本主義は親の子を育するがごとく、権利義務の観念を超越したる純情を以て構成したる家族、その家族の集団が男女の分業ありて和合統一せられ、生活上において共産的なるが如く、道徳経済の不二一体なる組織にあるのである。」
 内田翁は、大日本生産党の綱領のなかで、上述した親子主義に基づく具体的政策を挙げられているが、そのなかで筆者が注目したのは、
三、府県を併合しその組織を改革し地方自治の権能を拡張する事
五、選挙法を改正し一家を構成せる家長は男女年齢を問わず選挙権を付与する事
十三、世襲財産の限度を制定し限度額以上に対しては累進的相続税を課する事
十五、土地兼併の弊を打破し無住無戸の国民なからしむる事
である。
 三の目的は、「中央偏重地方枯渇の弊」を生じている行政区画を合理化することで「産業経済の地方的独立によって産業の発達を図り国民の生活を安固にし、地方自治の基礎となさしめ」ることにある。これは今日の道州制につながる議論である。
 五の目的は、西欧の個人主義に基づく普通選挙ではなく、国家の細胞であり、社稷自治の基礎的な単位である家族の家長に参政権を認めるべきとするものである。家長は一家を代表する者であり女子でも未定年者でも差し支えない。
 十三は、国家の細胞である家族を保護するため、「各家の世襲財産に定額を設けその財産を子弟に譲与するに当りて定額の範囲には相続税を付加せざる事とし、しかしてそれ以上の財産に対しては現行の累進法よりも数等の高率を以て課税」するものである。
 十五は、愛国心の物質的基礎として自らの土地と家屋に定住せしめることが目的である。
 このように、自立的な地方社会を再編するなかで、伝統家族(家族は祖先祭祀を通じて皇祖に帰一する)の政治経済的基礎を確立することによって、近代によって引き裂かれた社稷と宗廟の再統一を実現するということが内田翁の志向する「大日本主義」であったと思われる。

コメントを残す