バングラデシュで武装集団が外国人客らを人質に立てこもり、日本人も犠牲になる事件が発生した。実行犯は現地ではエリート層に属する青年であるとみられ、イスラム国との関連が取りざたされている。許しがたい事件ではある。
しかし同時にわれわれの側にも見直すべきところはなかったのか。
小泉内閣がイラク戦争に賛同し、戦争協力に踏み切ってからというもの、日本政府の態度は常にアメリカに寄り添うものであった。この間にわが国の総理大臣は何人も変わっているが、皆ほぼ一様に「テロとの戦い」等、アメリカ政府が述べる「戦争の大義」を繰り返したに過ぎなかった。そこには苦悩も感じられず、自らの言葉すらも失ってしまった姿がある。
アメリカがイラク戦争でフセイン政権を倒したころから、イスラム世界には無秩序が一層広がり始めた。当時、ブッシュ政権は「フセイン政権を倒せばイスラム世界に民主化がドミノのように広がり始める」と薄甘い楽観論を述べていたが、ドミノのように広がったのは「民主化」ではなく「無秩序」や「憎しみ」の方であった。フセインを倒し、ビンラディンを倒し、カダフィを倒したが、中東から無秩序と憎しみの連鎖が断たれることはなかった。アルカイダの次はISILと、イスラム勢力は過激化する一方ではないか。アメリカは泥沼化した戦争に入り込んでしまったのである。グローバル資本に搾取された欧米のイスラム系移民の憎しみと、戦争により平穏な生活を失った中東・アフリカの憎しみが結びついて起きたのが一連のテロ行為である。
日本はアメリカとともにイスラム世界に無秩序や憎しみをもたらした張本人であるということを忘れてはならない。しかも、さしたる使命感もなくただ保身のためだけにそのような選択をしたということを、胸に刻み付けるべきだ。
しかも日本をはじめとした国際資本は、現地民を低賃金で使い捨てる縫製工場を乱立させ、いわゆる「ファストファッション」はバングラデシュをはじめとした低賃金労働によって支えられている。現地民は一日十二時間以上働き、休みも月に一、二回しかないと言う。また、工場からの汚染水や農薬による深刻な健康被害、川や海などの汚染による漁業被害が現地では起こっているという。こうした代償を払いながらも、肥え太るのは巨大資本だけであり、現地民を搾取している巨大資本には、もちろんわが国の資本も含まれている。
そうした対米追従の外交とグローバル資本による搾取が、テロの直接的原因ではないだろうが、遠因となっていることは否定できないだろう。
歴史を近く見たときのアメリカニズム、長く見たときの西洋近代の価値観、そういったものを根源的に見直さなくてはならない。各国がそれぞれ培った伝統文化に回帰することが、それへの強力なアンチテーゼになるとわたしは考えている。そしてそれを主張した人達こそ、戦前のアジア主義者たちであった。
アジア主義は確かに列強の植民地政策に対する反発と言う側面もあった。しかし彼らはそこからさらに一歩哲学的に踏み込んで、西洋近代の価値観の根本的な見直しにまで言及していた。『大亜細亜』の創刊の辞でも、「メッカ巡礼を二度敢行した興亜論者田中逸平は、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道(伝統的思想)の覚醒にあると喝破した。大道への自覚と研鑽、伝統の回復こそが大亜細亜の志なのである。國體の理想に基づき国内維新を達成し、亜細亜と道義を共有していくことが、我らが目指す道なのではなかろうか。それが「八紘為宇の使命」にほかならない。」と謳われている。
わたしの個人的見解だが、例えばかつて民主党政権時に持ち上がったような「東アジア共同体」構想のようにアジア各国との単純な政治経済的連帯、EUの東アジア版を作るような構想ではダメで、そこに「国際資本の規制、撲滅(アジア域内であっても)」と「各国の伝統への回帰」がなければならない。そしてそれを実現させるためにはあらゆる政権を打倒しなければならないぐらいの困難な道が待っていることくらいは自覚しているつもりである。
そのためにまず大アジア主義発祥の地日本で、維新が為されなければならない。維新とは単に政府転覆を意味するのではなく、しつこく述べるように、「国際資本の規制、撲滅」と「伝統への回帰」への国民の自覚と覚醒が目指されなくてはならないのである。単に政策の問題ではなく、「自覚と覚醒」が必要だというところが重要な要素なのだ。