蓑田胸喜の政治思想―国家は改造できない―


『論語』の有名な一節に「子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋遠方より来る有り、また楽しからずや。人知らずして恨みず、また君子ならずや」というものがある。学んだことが自らの血となり肉となることはなんて喜ばしいことか。人に知られていないからといって恨んだりしないのが君子ではないか、という最初と最後の一節はわかる。だが真ん中の説で友達が遠くから訪ねてくるのは楽しいですねとは当たり前すぎるのではないか、と言われる。遠方から来る「朋」とはいったい誰なのだろうか。
本を読んでいると著者の言葉によっていままでもやもやとしていた感性が、何かに導かれるように確固たるものになっていくことを感じることがある。そんなとき、著者が目の前に現れてきて、教えを受けているかのような気持ちになることがある。その師は、場所はおろか時代をも同じくしていなくとも、人は言葉で誰かとつながることができる。それこそが「朋」が遠方よりやってきた瞬間なのだろう。だとすれば、最後の、人が自分のことを知らないからと言って恨まないのが君子ではないかという章句にもまた違った解釈が生まれ得るのではないか。つまり今の自分が誰からの理解も得られず不遇だったとしても、自らの考えを言葉にさえ残しておけば、遠く離れた誰かが、百年先、千年先の誰かが自らの価値を拾い上げてくれるかもしれない。だから恨まないのである。その可能性だけを信じて世俗の栄達よりも己の言葉を残し続ける人間。それはまさしく「君子」ではないだろうか。
同じく『論語』に、「徳は孤ならず。必ず隣りあり」という言葉がある。徳を持つ者には必ず味方が現れるという意味だが、これも同じく、なぜ徳は孤立しないのか。遠い過去に、そして遠い未来に、この広い世界のどこかに、必ず自らの徳に共鳴する人物がいるからである。目先の私欲ではなく、百年前の人物から学び、百年先の同朋に語りかける。まさに君子のみがなしうる仕事ではないか。それを目標としたとき、必ず人間の在り方から議論を出発させなければならない。目先の制度など、はるか先にはどうなっているかわからないからだ。

制度を論じるものは必ずスローガンで人を籠絡しようとする。だが、スローガンなんかでは人は変わらない。表面上動いたふりをするだけである。真の自覚がなく、制度だけ変更して何かをなし得たかのように満足しているようでは駄目なのである。
本当の問題は、制度や構造といった無機質なものにあるのではなく、人間そのものにある。人間の在り方を問うことなしに現代社会の問題を抉り出すことなどできない。制度の変更を主張すれば、それは「わかったつもり」になるかもしれないが、制度を変えるだけでは国家が真に健康を取り戻すことはない。

蓑田胸喜という人物がいた。人は彼を悪しざまに罵り、「狂人」と言った人もいた。だが、本当にそうだったのだろうか。「狂人」は極端な例としても、蓑田を煽情的な言論ばかり述べていたような人物であるとの評価は数多くなされてきた。なるほど蓑田の言葉はたしかに煽動的な言葉遣いが多かった。だが、それに囚われて蓑田の本当の思想になかなか気付けなかったのは、人々がいかに世俗の栄達、力関係に汲々とさせられているかを思い知らされる。
保田與重郎の自叙伝と言える『日本浪曼派の時代』のなかに蓑田胸喜について触れている箇所がある。
有名な慶大教授の蓑田胸喜氏は、東大で哲学を専攻した学者だが、ある時私に、我々は経済学を学ばなかつてよかつたねといつた。経済学をやるやうな人間は、みな人がらがいやしいと極言して嘆息された。そのころの東京大学経済学部の教授たちをながめて、この批評が当つてゐると、私は思つた。そののちの戦中戦後のその人々の世渡りぶりを見て、私の心は滅入つた。蓑田氏については私はよく知らないが、戦後にこの人を非難罵倒することによつて、自己弁護をしたやうな多数の進歩主義者の便乗家とはちがつて、私の印象では清潔な人物だつた。極めて頑迷固陋といはれたが、筋が通つてゐた。勿論日本浪曼派とは無関係な人である。ずゐ分困らされたといふ人がゐるときいたが、世間栄達に無関心なものなら、何も困る必要はない。世渡りの妥協を自他に顧ない人で、世間の世渡りの思惑を無視する人があるものだ。困らされる人が、本当の学者なら、困るといつてはならぬ。文士とか政治家とは、みなさういふ超世間的のものだ。しかし世間なみの公務員や会社員の職をおびやかすやうなことには、よほどの思慮がなくてはならぬが、文士同志学者同志では、さういふ世俗の思慮は無用でよい。教授の職より学を愛することの出来る人なら、蓑田氏を怖れる必要がなかつた筈だ。権力地位より正論に謹んだ人で蓑田氏を怖れた例を私は知らない。『保田與重郎全集』第三十六巻193頁。旧字体を新字体に改めた。
これほど蓑田を正面からまともに評した人は他にはいないだろう。蓑田は己の主張に一本筋が通った人で、ときに論証が至らぬままに早急に結論を出しすぎていると感じる部分もあるが、それは文章を書くものなら誰でも陥る可能性のある範囲内であり、決して狂人扱いされるものではなかった。
例えば立花隆は『天皇と東大』で蓑田を、狂信的に赤狩りを行ったといった類の評価しかしていないが(下巻55頁等)、蓑田胸喜の思想は全くそういうものではない。片山杜秀が「彼らには彼らなりの批判の論理が一応あったのであり、その思想排撃の論説の中には、今日もなお読み込むに値するものがある」から、「どうして「戦時中の一時期の悪夢としか言いようのないもの」とまとめて片づけてしまうことができようか」。と言い、蓑田の思想をその師三井甲之とともに「天皇の存在する日本は何もせずともそのままでよい国のはずで、どこが悪いからいじろうとか、体制を変革しようとか、余計なことを考える必要はないということである」と評して、彼らが左翼だけではなく北一輝や大川周明、権藤成卿も激しく批判していることに注目している(『近代日本の右翼思想』93~97頁)ように、蓑田は決して単に赤狩りをしていたわけではないし、東大への私怨によるものでもない(こともあろうに東大で反国体的教説がなされるとはけしからん、と思っていたことは確かだろうが)。
ちなみに片山は蓑田の思想を、天皇の存在する日本はこのままで良い国だから体制を変革する必要はない、という考えだと単純化して述べている。たしかに蓑田は左右に関わらず体制を変革する思想を攻撃し、「マルクス主義である」と決め付けたが(蓑田にとっての「マルクス主義」とはカール・マルクスの思想と言うよりは現行の秩序を乱す思想の象徴であっただろう)、現状にまったく問題がないと思っていたわけでもない。蓑田は反共的であったが、いわゆる資本主義的な発想を擁護したわけでもないし、資本主義の進展により貧者が生活難に陥っている事態をよしとしたわけでもない。蓑田は言う。「筆者がかくいふ(=国家社会主義批判の中で私有財産制度を廃止することの不可能性を説いた)のは、断じて『私有財産制度の神聖不可侵』を説かんとするものではない。かかる観念はことに日本の国法上には本来ないのである。帝国憲法第二十七条に曰く、『日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニヨル』」と。而して伊藤公『憲法義解』は右後に註していふ、『所有権ハ国権ニ服属シ法律ノ制限ヲ受ケサルヘカラス…無限ノ権ニ非サルナリ…各個人民ノ所有ハ各個ノ身体ト同ク国権ニ服属ノ義務ヲ負フ者ナルコトヲ認知スルニ足ル者ナリ』『公益ノ為ニ必要ナルトキハ各個人民ノ意向ニ反シテ其ノ資産ヲ収用シ以テ需要ニ応セシム此レ即チ全国統治ノ最高主権ニ根拠スル者ニシテ而シテ其ノ条則ノ制定ハ之ヲ法律ニ付シタリ』『普天之下莫非王土、率土之浜莫非王臣』―これ実に林氏らの希求せる『国家社会主義』の最高の理想的原理ではないか? 何を苦しんで西欧起源の『国家主義と社会主義の結合』といふ如きつぎはぎものを模索するの要あらん。われら日本国民は帝国憲法を遵守することによつて、資本主義または私有財産制度の弊害はこれを公然論議しまた合法的に改革し得るのである」(『蓑田胸喜全集 四巻』767~768頁)。蓑田のこの帝国憲法解釈は拡大解釈であろう。だがあえて帝国憲法に即して論じているところに蓑田の思想的特徴がよくあらわれているように思えてならない。

日本文化は、混淆の文化ともいわれる。岡倉天心が「シルクロードの終着駅」と呼んだように、アジアの様々な文化が日本で溶け合い、さらに、明治維新頃からは西洋の文化をも取り込んだ。これを雑種の文化と呼ぶ人もいる。だが、世界に於いて雑種ではない文化など存在しない。そして、雑種の中にも異文化を取りこむ芯がなければ、異文化に飲み込まれて、日本は今の姿を保てていなかっただろう。その芯とは何かを考え続けた人物の一人に、蓑田胸喜がいるのではないだろうか。
竹内洋は蓑田やその師三井甲之について、こう述べる。「明治の知識人にとって、西欧は外側にあるぶん和魂洋才がありえた。しかし、しだいに西欧は知識人の身体文化となった。西欧は知識だけでなく、風物にも食い込んだ。しかるに満州事変の勃発もあいまって、人々は民族のアイデンティティを求めざるを得ない。そうした時代に、本郷知識人のアウトサイダーであった蓑田や三井は、帝大教授の身体に洋魂洋才(「半西欧人」)の生ける凝縮つまり万悪の根源をみる」(「帝大粛正運動の誕生・猛攻・蹉跌」『日本主義的教養の時代』44頁)。
蓑田胸喜は親鸞や山鹿素行などを多く引用し、しかも非常に好意的に評価している。思うに蓑田は仏教という外来思想を日本化した親鸞を称揚し、儒教と言う外来思想を日本化した山鹿素行を称揚したのであろう。西洋思想は誰であろうか。蓑田は自分であるという自負があったかもしれない。すでに「原理日本」最初の号に書いた「高畠素之氏の「反訳思想」」においてこう述べているのである(ちなみに「反訳」とは「翻訳」のこと)。「東洋文明の摂取に当つてもその過程には単なる反訳模倣時代と人物とがあつたけれども、日本人はそれに止らず進んで創造的開展を与へたのであつた。儒教仏教によって代表される印度支那の東洋思想は先には聖徳太子によつて、後には親鸞素行によつて折伏摂取されてしまつたので、日本の仏教と儒教とは本来の意味での仏教儒教ではないもになつたのであつた。若しさうではなく日本が何処までもそれらの東洋思想に反訳模倣的態度で終始したであらうならば、日本もまた印度支那と同一の運命に陥つてをつた筈である。さうならなかつたところにこそ日本精神日本思想に「東洋一の美点」ともいふべきものが潜んでいるので、真の日本精神は「知識を世界に求め」つつ「大いに皇基を振起」し来つたのである。それが日本精神に独自のものであつた」(『蓑田胸喜全集 一巻』269頁)。長々と引用したが、ここには日本思想の優越が語られる一方、外来の排除とも無制限の需要とも違う、蓑田の外来思想に対する考えがよくあらわれている。

三井甲之は昭和二十年七月、「天壌無窮必勝の信念」と言っているだけではダメで、「億兆一心義勇奉公」を果たさなければ、という当時の意見を明確に否定した。何よりも「天壌無窮神州不滅」であることを確信することが先決であり、「億兆一心義勇奉公」はそれに伴う結果でしかなかった。それは「億兆一心義勇奉公」によって「天壌無窮神州不滅」を達成しようという平泉澄らの議論とは対立するものであったという(昆野信幸『近代日本の国体論〈皇国史観〉再考』7頁)。「観念右翼」の面目躍如と言ったところであろうか。
なるほどこういう議論を眺めていると、三井や蓑田は「天壌無窮」「神州不滅」をひたすら叫ぶだけの狂人として理解されかねないだろう。だが、彼らの議論が常に人間の在り方から出発していることを忘れてはならない。彼等は自らの思想の実効性など気にしているわけではない。百年前、千年前の先人から声を聴き、百年先、千年先の日本人に働きかけている。「億兆一心義勇奉公」を重んじたとき、それは「現実的」のようでいて、実はその目線が「今」にしか向いていない。時空を超えた長い目で見たとき、「天壌無窮」「神州不滅」と「億兆一心義勇奉公」のどちらが上位の概念化と言えば、「天壌無窮」「神州不滅」に決まっているのである。
三井や蓑田は親鸞の絶対他力の思想に傾倒していた。人為的に世の中の在り方を変えようなど自力救済の不遜極まる行為である。天皇のもとにある「あるがままの日本」を深く自覚し、それに身をゆだねることで一体となっていく。それこそ悠久の大義に沿う行為なのである。
三井や蓑田は百年前、千年前の先人から声を聴き、百年先、千年先の日本人に働きかけることを目指していたに違いない。それがなかなか理解されない時に、彼等はその苛立ちをもっとも煽情的な言葉で表現したのではないだろうか。

平泉澄や崎門学などの考えでは日本の国体が無窮であるということは、皇室や国民のたゆまぬ努力によって支えられてきたのであって(「億兆一心義勇奉公」)、そのまま与えられたものではないという観点に立つ。それは確かに細かく見れば三井蓑田の世界観と対立するものであっただろう。だが一方で、大きく見れば三井蓑田も「億兆一心義勇奉公」を否定したわけではないという点で両者に大きな違いを認めることはできない。三井蓑田はまず「天壌無窮神州不滅」の深い確信を求めたのであって、それのない中での「億兆一心義勇奉公」の奨励はつまらぬ制度変革の議論に終始しかねない。それでは西洋思想に毒されたわが国の社会科学的知識を改めるには至らないどころか、むしろ悪化させることになりかねないのである。多文化を包摂した日本。それはアジアの各思想から、明治維新後は西洋思想にまで及んだ。しかしその中には一本貫く中心がある。その主体なしに外国の文化文明を取り込むことなどできようはずがない。その中心こそ「天壌無窮神州不滅」である。その中心への深い確信なくして如何なる議論も始まるはずがない。

細かい議論の際は置いておいて、戦前昭和の時代は人間の生死の問題や如何にして生きるのかという問題がそのまま政治的大義に直結する時代であった。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。例えば林房雄は『青年』で、次のように言うのである。
「人間のすべての社会的活動を、その努力を、その創造を否定するならば、人はただ、生まれ、食べ、交尾し、子供をうみ、そして死ぬてんとう虫と異なるところはない。だが、人間はてんとう虫ではない。人間を「万物の霊長」と称する古典的解釈は、けっしてまちがいではなかった。虫は自然の意志のままに生きそして死ぬ。人間は自然の意志に従うと同時にこれに逆らって、生き、死に、しかも、ついに大自然の意志を完成するのだ。
大義のために死し、わが名を青史に列ねようとする努力―これこそ人間として誇りうるただ一つの人間的努力である。自分はまちがっていなかった。迷う必要はない。」(『現代日本文学館28 林房雄・島木健作』112頁)

なお、三井や蓑田、あるいは平泉澄も含め戦前には天皇親政論者が多かったが、蓑田も含めた天皇親政論者が天皇の独裁を主張しているかのような誤解もいまだに多い。上杉愼吉は「国体に関する異説」で「仮令心に君主々義を持すると雖も、天皇を排し人民の団体を以て統治権の主体なりと為すは、我が帝国を以て民主国なりと為すものにして、事物の真を語るものに非ずと為すのみ」と言う(『近代日本思想体系33 大正思想集Ⅰ』6頁)。あるいは蓑田胸喜は「帝国憲法第十条に曰く『天皇ハ行政各部ノ官制及文武官の俸給ヲ定メ及文武官を任免ス』と。(中略)行政法を講ずるもの、その直接の第一依拠を本条に求めざるもの一人としてなきにも拘らず、美濃部氏を始め従来殆どすべての行政法学者は異口同音に『行政権の主体は本来国家である。』の語を以てその論理を進むるのである。これいふまでもなく憲法論上に於ける『国家主体・天皇機関説』の行政法論へのそのままの適用である。即ち、『統治権の主体』を以て国家となすの結果、その統治権の一成素たる『行政権の主体』も亦国家なりとするのである」(蓑田胸喜『行政法の天皇機関説』原文旧字、蓑田胸喜全集第六巻231頁)という。
両者がここでこだわっていることが『統治権の主体』という言葉であることに注目したい。「統治権の主体」即ち「主権」なのだが、現代風に言い換えれば、政治の正当性あるいは正統性の所以ということではないだろうか。なぜ政府は行政的命令を国民に発する権限があるのか、その由来は天皇ではないのか、単に国民としてしまってよいのか、と問うたのである。あるいは、行政官は天皇に任命されるが、それは天皇が大権を持っているからではないのか。大権を持っていないものがどうして任命できるのか、と問うたのである。
蓑田胸喜は「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」という。天照大御神も八百万の神の意向を確認し、孝徳天皇は臣下と共に治めたいと欲せられ、明治維新の際には万機公論に決すとされた。独裁は天皇みずから取られなかっただけではなく、国家機関(=政府)にも許さなかったことを強調した(「天皇親政と輔弼機関の分化重層」『蓑田胸喜全集』第六巻964~966頁)。蓑田は決して議会が存在することを否定していない。議会が政党に私物化され浅はかな民意が大手を振うことに嫌悪感を示したのである。天皇親政論は天皇独裁論ではない。

蓑田胸喜を「全体主義者」「ファシスト」とレッテルを貼って片づけようとする議論も後を絶たない。だが先ほど蓑田が「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」と論じていたことを引用したように、当然と言えば当然だが、蓑田もまた独裁政治を厭う人間だったのである。そして戦前昭和では日独伊三国同盟を結んだ頃から、ナチスドイツやムッソリーニのファシズムに対する軽薄な共感を示すことも多かった。近衛文麿もヒトラーのコスプレをしたこともあった。しかし蓑田は、ヒトラーやムッソリーニに対し痛烈な批判を加えていたのである。
もっとも、蓑田は最初からヒトラー、ムッソリーニに批判的だったわけではない。ムッソリーニが出てきた当初は、蓑田はムッソリーニに「宗教的信念」と「道徳的感激」が政治の上に集中させられつつあると、祭政一致の大理想を見ていた(『学術維新原理日本』蓑田胸喜全集第三巻305~306頁)。ムッソリーニは「まことの人生宗教、祖国愛の熱烈なる求道者」であると絶賛している。
しかし『学術維新』においては「ナチス精神」は國體の相違から来る思想を除いてはわが国の武士道と通じるものがあると述べている(『学術維新』蓑田胸喜全集第四巻715頁)ものの、この時すでに『我が闘争』に見えるアーリア民族優越論と日本文化に対する蔑視的個所を指摘し、抗議していることは注目すべきことである(同724~725頁)。蓑田はそのうえでナチス追随の日本の言論の風潮を批判したのである。
ここでは蓑田がヒトラーやムッソリーニをどう評価していたかと言うよりも、彼らに対する評価基準に祭政一致ともいうべき道徳と政治の統一を望んでいたことの方が重要である。

蓑田胸喜は「日本」という概念を原理的に信仰した。蓑田は日本文化が支那文明もインド文明も包摂しうる強固な理念であると考えた。それらを熱烈に進行することに因って自ずから物事は展開していくのであって、人為的な力で変革しようなどという自力救済の思想を蓑田は認めなかった。
蓑田の思想を一言でいえば、「国家は改造できない」と言うことであろう。国家改造とは国家が機械的に改変できると考えているということであり、国家を唯物的に考えているということだ。制度が変われば、システムが変わればバラ色の未来が訪れる。そんな妄想を垂れ流せるのは国家がシステムによって運営されていると信じているからである。国家はシステムではない。国家は生命体であり、共同体である。したがって改変の方法は構成員一人一人が自覚し、覚醒していくことだ。

一読者として、政策の議論にはある特有のつまらなさがある。それは「仏作って魂入れず」になりはしないかという懸念である。政策を論じるならば、そこに込めた精神を論ずるべきであり、そうでなければ片手落ちになのである。
政策の議論をすれば「具体的」で精神の話をすれば「抽象的」で「口先だけなら何とでも言える」。そのような陳腐な心性に甘んじることはできない。何のために政治を論じるのか。それはわれわれが政権担当者となって甘い汁を吸うためではない。果たすべき大義を先人から預かっているからだ。それを果たすには通り一遍の政策の議論で済むはずがない。
蓑田が明治天皇御製をその著作に挟み込むのはつまらぬこけおどしでもなければ狂信的な精神でもない。そこに先人から受け継いだ大義が宿っているからだ。

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