玉川博己「三島由紀夫と天皇論」(『維新と興亜』第3号)


一、三島由紀夫の天皇論
 三島由紀夫の国体論、言い換えると天皇論に関する主要な著作は『英霊の聲』、『文化防衛論』その他晩年に「論争ジャーナル」や「日本及び日本人」などの雑誌に発表した諸論文がある。三島由紀夫の天皇論の要点をまとめると以下の通りであろう。

三島由紀夫

① 文化概念としての天皇、すなわち天皇は日本の歴史的連続性、民族的同一性、文化的全体性を象徴する存在である。また日本においては天皇のみが革命原理たりうる。すなわち大化の改新から明治維新まで、また挫折したとはいえ昭和維新も天皇を革命の原理として実行された。
② 国防の根幹としての天皇、すなわち日本を守るということは天皇と天皇に象徴される日本の文化を守ることである。従って天皇は自衛隊に対する軍旗の授与など名誉を与える栄誉大権を回復しなければならない。三島由紀夫にとって天皇と国防は同義でもあったといえる。
③ 戦後の象徴天皇制は見直されなければならない。天皇の「人間宣言」の否定。すなわち『英霊の聲』における二・二六事件を鎮圧し、大東亜戦争で特攻隊の犠牲が出たにもかかわらず戦後「人間宣言」を発した昭和天皇への批判。青年将校や特攻隊員の声を借りての天皇に対する怨嗟ともいうべき「などてすめろぎは人となりたまひし」の痛烈な言葉。

 戦後多くの天皇論、国体論が論じられたが三島由紀夫ほど突き詰めたラディカルな天皇論を唱えた者はいなかったであろう。では三島の天皇論はどの様にして形成されてきたのだろうか。
 まず文化概念としての天皇であるが、これは文学者としての三島の古典的美意識と少年期の三島に大きな影響を与えた日本浪曼派に溯ることができるだろう。今保田與重郎の著作を読み返しても日本の文化の根源が天皇であること、日本を守ることとは文化と天皇を守るということと同義語であるという趣旨の文章があちこちに見られる。三島の死の直後橋川文三が三島由紀夫は日本浪曼派の道統に連なる文学者であると発言したが、まさに正鵠を射ていると思う。戦前日本の国体論の集大成が当時の文部省が編纂した『国体の本義』(昭和十二年)と『臣民の道』(昭和十六年)であるが、明治以来の様々な国体論、とりわけ天皇機関説を克服せんとする国体明徴運動の仕上げともいうべきものであった。これを要するに、わが国体の淵源を天壌無窮の神勅に求め、神武創業以来万世一系の天皇が日本を統治することは万古不易の法則であるとした。『臣民の道』は『国体の本義』を下敷にしながらも、当時の世界情勢を背景に世界新秩序建設の歴史的使命の淵源を八紘一宇の詔に求めている点に特徴がある。

 昭和二十年八月ポツダム宣言受諾をめぐって政府と軍部が大論争をしたのは、国体護持が貫徹できるかということであり、この場合の国体とは天皇の統治権の存続とその保障であった。しかし大東亜戦争の敗北と昭和二十一年初頭の「天皇人間宣言」によって国体論の根拠である天壌無窮の神話が否定せられ、東京裁判によって八紘一宇の精神は侵略戦争のイデオロギーであると断罪され、日本国憲法の公布により天皇は象徴としての位置づけがなされることとなった。三島由紀夫はこの戦後体制の中で如何に天皇の意義を見出すか苦闘と煩悶の末上記の文化概念の天皇という結論に至ったのである。
戦前の教育を受けた世代には天皇の存在を天壌無窮の神勅や八紘一宇の詔で説明することは容易であろうが、教育勅語も大日本帝国憲法も知らない戦後生まれの世代に天皇の意義を納得させることは困難である。文化概念の天皇という三島天皇論は我々戦後生まれとっても理解できる分かりやすいものであった。その意味で三島は天才的であったといえよう。

 次に天皇を日本歴史における革命原理とみなす三島の思想は北一輝や二・二六事件における青年将校の影響が大である。北一輝の『国体論と純正社会主義』、『日本改造法案大綱』における天皇論はどちらかというと天皇機関説的である。北一輝には大川周明ほどの伝統的な尊皇心は見られない。代々木で処刑される時、他の青年将校らが最後に「天皇陛下万歳」を叫んで銃殺されたのに対して、北一輝は「それはやめとこう」と言ったと伝えられている。天皇大権を発動して憲法を停止し、一気に維新革命に突き進むという北の思想は青年将校に大きな影響を与えた。しかし青年将校らの天皇観はより過激であった。その典型が磯部浅一で、二・二六事件後獄中における磯部の遺書では自分達を鎮圧した昭和天皇に対する呪詛ともいうべき激しい言葉が書き連ねられている。「陛下、何というご失政でありましょうか」という血の叫びである。
 三島はこの磯部の叫びに深い共感を持ったものと理解される。この昭和維新の時代における青年将校の天皇観には極めてラディカルなものがあり、もし維新革命と国体顕現の道を阻害する天皇があればそれは天皇の資格はなく、場合によってはその天皇を除いてでも維新を追求すべきだとの革命論にゆきつく。現に当時直宮である秩父宮が青年将校に同情的であったこともあり、青年将校の中には昭和天皇を廃して秩父宮を皇位におつけすべしとの論もあったといわれ、世間でも壬申の乱の再現かと噂されたという。

二、 二・二六事件と平泉学派
 三島由紀夫が二・二六事件の青年将校に強いシンパシーを抱いていたことは既に述べた通りであるが、同じ国体護持の立場に立ちながらもこの二・二六事件における青年将校や昭和四十五年の三島事件を鋭く批判したのが平泉澄博士とその学派であった。二・二六事件については平泉博士は天皇大権を私する暴挙、不祥事と指弾した。有名な話であるが、当時弘前聯隊に勤務されていた秩父宮が事件の報を聞くや直ちに上京の途につかれたが、平泉博士は上野から汽車に乗って途中水上まで行き、そこで秩父宮をお迎えして秩父宮に対して自重を促されたという。

 また終戦の際ポツダム宣言の受諾をめぐって陸軍の一部青年将校が引き起こしたいわゆる八・一五クーデター事件の際、事件の中心であった椎崎二郎中佐、竹下正彦中佐、井田正孝中佐、畑中健二少佐らはいずれも青々塾に出入りしていた平泉門下生であった。彼らの決起の趣旨は国体護持の保証が得られないままポツダム宣言を受諾することには反対というものであり、決して徹底抗戦そのものが主目的ではなかった。終戦の二日前に竹下中佐や井田中佐らが平泉博士に面会して教えを乞おうとしたが、平泉博士は一言も発せず、青年将校らは大いに失望したと、戦後書かれた竹下中佐らの手記に述べられている。すでに八月十日頃から平泉博士は承詔必勤という言葉を口にしていたという。平泉博士の直弟子で戦後も平泉学派の重鎮であった田中卓博士によれば、「承詔必勤の精神は日本国体の極致にして至純の伝統である。」(田中卓著『祖国再建・下』より)ということになる。

 では純粋な国体護持のための行為がもし天皇自身の意思と相反する場合臣下はどうすべきか。二・二六や八・一五の青年将校らは自分達の行動が真の大御心にかなうものであると信じ、もし天皇の意思が異なる場合にはそれは君側の奸による妨害の結果であると考えた。また一部にはたとえ逆賊の汚名を着ても、天皇の意思に反しても国体護持の行動にまい進すべきと考えた過激分子もいた。三島由紀夫の天皇論はある意味で承詔必勤の枠を超えたものであった。それゆえ平泉学派や伝統的保守派から批判されることとなったのである。

 今から十年前、三島事件四十年を機に多くの出版がなされた。(我々が上梓した『「憂国忌」の四十年』もそのひとつである。)その中で私が大変興味深く読んだのが鈴木邦男氏の『遺魂 三島由紀夫と野村秋介の軌跡』である。この本で鈴木氏は「最後のサムライ三浦重周の自決」という感動的な一文を書かれているが、その他鈴木氏の着眼が鋭いと感じたのが、憲法論に関して三島由紀夫が女系天皇を容認していたことの紹介と「論争ジャーナル」グループと三島由紀夫の確執の原因が平泉学派の存在にあったことを述べた文である。

 平泉学派の問題については当の田中卓博士の「三島事件と「国史研究会」・『論争ジャーナル』」という文章がある。(『祖国再建・下』所収)田中卓博士の文章には楯の会設立の母体となった雑誌『論争ジャーナル』を発行していた育誠社の中辻和彦氏、萬代潔氏、持丸博氏らの名前が出てくる。『論争ジャーナル』の関係者は平泉学派に連なる人々であり、田中卓博士も同誌の発行には大いに協力をされていた。
 田中卓博士は上記論文の中でほぼ正確に三島由紀夫、『論争ジャーナル』、楯の会の関係について描写されている。また森田必勝氏らが昭和四十四年春日学同から分かれていった理由が楯の会への専従一本化を迫った三島由紀夫の方針にあったと述べられ、また『森田必勝遺稿集 わが思想と行動』における森田氏の日学同離脱に関する宮崎正弘氏の苦渋にみちた解説を冷静に評価されている。
 また田中卓博士は上記論文の中で三島事件について学者としての立場からその問題点を鋭く批判されており、決して無条件に「義挙」とか「烈士」とか賛美をされてはいない。しかし、三島由紀夫と森田必勝両氏の市ヶ谷決起の精神は高く評価され、それゆえ我々の憂国忌の発起人になることを快諾して頂いたのである。

三、 三島由紀夫と村上一郎
 平成十七年十二月十日長年の同志で当時三島由紀夫研究会事務局長であった三浦重周の自決の報を聞いて私が思い浮かべたのは、まず三島由紀夫と森田必勝両烈士のこと、そして昭和三十五年十月に浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した後翌十一月に獄中で自決した山口二矢、昭和五十四年元号法案制定を熱祷して自決した大東塾の影山正治塾長、それからとくに三島事件から5年後に自決した村上一郎であった。三浦重周が死んだのは五十六歳、そして村上一郎が死んだのは五十五歳でほぼ似た年齢であった。若い世代の読者にとって村上一郎はもはやなじみが薄く、その著作を読んだことのある人は少ないだろうし、現在村上の著作は古書店でしか入手できない。死後刊行された『村上一郎著作集』(全十二巻・国文社)も絶版となっている。

 村上一郎を論じたついでに吉本隆明に触れる。正直言って私は三島由紀夫の死をはさんだ限られた期間しか吉本隆明を読んでいない。吉本隆明は大正十三年生まれで理科系学生であったため兵役にこそ行っていないが、青春期を戦時に過ごした戦中派であり、高村光太郎、小林秀雄、保田與重郎などの影響の下に詩作を始めたという。戦後は労働運動を通じて左翼活動に入り、六十年安保では国会突入闘争にも参加して検挙されている。その頃から日本共産党を批判する共産主義者同盟(ブント)の積極的な同調者となる。

 六十年代以降共産党とスターリン主義を徹底的に批判した『擬制の終焉』とか『情況への発言』、『異端と正系』などは私もよく熱心に読んだものである。そして国家論を論じた『共同幻想論』(昭和四十三年)はその全ては首肯できずとも、なかなかの傑作だと私は評価する。従来の左翼国家論はエンゲルスやマルクス、レーニンに依拠しながらも階級闘争史観の公式主義の枠から出ることはなかった。吉本は個人が抱く「個幻想」から始めて、「対幻想」そして社会や国家をつくる「共同幻想」へと発展させて論じてゆく。この『共同幻想論』はベストセラーとなったが、果たしてどれだけの読者がこれを正確に理解したのかは疑問である。あの大学紛争の時代、吉本隆明は一種のファッションだったのかも知れない。

 ブントは五流十三派と称される様に分裂を重ねていったが、主流派であったブント戦旗派ではレーニンの『国家と革命』とならんでこの吉本隆明の『共同幻想論』を国家論の学習文献に指定していたほどだ。レーニンと吉本隆明の国家論が同列に扱われるのだから当時のブントがいい加減だという論議も成り立つだろう。ところで共産党や革共同(日本革命的共産主義者同盟:中核派や革マル派の母体)と異なり共産同(ブント)というのは面白い党派で結構右翼的な分子もいてその後赤軍派や連合赤軍、そして日本赤軍などの超過激派を生み出してゆく。これついては山平重樹氏がかつて上梓した『連合赤軍物語 紅炎』(徳間文庫)を読まれることを薦めたい。日本赤軍の活動家の中には三島由紀夫崇拝者がいたことも私は知っている。私としては今となっては彼らのエネルギーを民族派の中へ吸収出来なかったことを反省している。

 従って村上一郎にとって三島由紀夫は最大の愛読者であり理解者であった。それゆえ、三島事件の報を聞くや村上は市ヶ谷台上に駆けつけずにはいられなかったのだ。また三島の死を村上ほど自分のこととして受け止めた文学者は他にいないだろう。三島の死の直後に詠んだ村上の歌がある。その中の四首をあげる。いずれも心に沁みるよい歌である。

「群集があざとくむごき手を挙げて指さして言ふ貌な呪ひそ」
「いのちより出づる言葉の渚にて引きゆく潮のたわたわとあれ」
「虹のごとうるはしき雲遠く湧き三島の忌日ながかりしかな」
「血と鉄の交はるあたり夕星のかげ清かれと妻と語るも」

 またこの時村上は「三島由紀夫氏、森田必勝氏らの辞世の歌は、いずれもこの『新古今』の道統を今日に生かしめようとした良質の歌である。」また「わたしは、安物ながら日本刀を愛し、国に志あるもののひとりとして、三島氏、森田氏らの屍をふみこえて、日本の真の革命、とりわけ日本人の精神の革命のために、生死することを誓う。」(『志気と感傷』より)という文章を残している。真に三島由紀夫と森田必勝の精神を理解するもののふの魂の叫びである。

 それから五年間村上は精力的に三島や天皇のことを書いてきたが、昭和五十年三月二十九日に彼は武蔵野市の自宅で愛蔵の日本刀で壮烈な自決を遂げた。この当時村上の自裁のニュースを聞き、私は大きな衝撃を受けた。三島由紀夫と森田必勝が自決した昭和四十五年十一月二十五日、三浦重周が自決した平成十七年十二月十日とともに私には忘れられない日である。尚、村上の死に際してはその友人であった吉本隆明や立場の異なる丸山真男まで哀悼の意を寄せたという。現在村上一郎の墓は小平霊園にあって墓碑には「風」の文字が刻まれている。
 以上三島由紀夫の天皇論から、平泉学派との関係、そして極左から出発した村上一郎が熱烈な三島由紀夫信奉者になってゆく経緯を論じてきた。私は学生時代に読んだ三島の天皇論の衝撃がいまだに身体に染みついている。今年は「憂国忌五十年」の年である。

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