保田與重郎は『戴冠詩人の御一人者』で、「明治はまづ實用主義風に市民社會體制を學ばねばならなかつた。歴史から學び得ぬまでに後れてゐた。兆民もまた諭吉もやはり武士の氣魄である。その精神が日本をアジアに於ける唯一の獨立國とした。近代世界を建設した市民の人文精神は江戶の傳統にはなかつた。日露役を越した日本市民文化の昂揚さへ比較すれば淡い姿である。近代市民の人文精神の代りに日本に於いては「さびしい浪人の心」が封建への反逆を描いた。中世の世捨人たる俳諧師ではなく時代の監視者たる浪士、明治の三十年代の市民文化さへその失意の丈夫の心の導いたものである。さらに近代の社會主義革新主義さへ浪士の心に導かれたのである。」(『保田與重郎全集』第五巻213頁)と述べている。社会主義革新主義をも「さびしき浪人の心」に位置づけていることは興味深い。
少なくとも明治時代までの社会主義は、在野精神と拝金主義への嫌悪と、格差に憤る義侠心がもたらしたものであって、マルクスは読んではいたがあくまで参考意見として参照していたに過ぎなかった。
そもそも皇室は民を「大御宝」と呼び仁政を施こうと努められてきた。明治以降も皇室は社会福祉政策の源流としての立場も持っていた。
そもそも市場において「神の見えざる手」が働き、自動的に利害関係が調節されるなどということは幻想である。「神」の存在を強く信じたい西欧人の願望の表れではないかという疑いを禁じ得ない。市場が拡大することで伝統的共同体が壊滅の危機に瀕し、一人ひとりが「砂粒の個」として孤立するようになった。共同体を維持するということはムラ社会に人々を閉じ込めるということではない。すべてを、人間の存在価値でさえも、金銭的価値に置き換えようとする力を持つ市場圧力の中で、人々の生活を維持していく防波堤となるものこそ共同体である。
いわゆる右翼、保守と呼ばれるものこそ、「市場圧力からの防波堤」の維持に努めるべきだ。市場は、本質的にグローバルだからである。ところが、冷戦による反共精神がそれを忘れさせ、資本主義への警戒心を甘くさせた。その弊害が、昨今の新自由主義の跳梁跋扈である。冷戦期には反共の名のもとに政権と手を握ることが習い性となってしまい、政権より右の立場から政権を厳しく批判する勢力の醸成を怠った。それはアメリカの占領政策と融和的である自由民主党の方針とも合うものであった。自民党を支持する限り永遠に戦後属国体制のままであるということさえも見えなくなっている。
既に北海道を中心に広大な土地が中華系を中心とした外国勢力によって買い占められている。その多くは税金対策等の理由であろう。しかし、こうしたインバウンド需要を幸いとして外国資本に便宜を図ろうとする勢力がいる。いうまでもなく自民党政権と官僚である。
このような政権のやり方を正当に批判する勢力が生まれなければならない。