わたしには自らの思想について一つ気になって仕方ないことがある。
それは、家族についてである。
わたしの政治思想を思うに、どう考えても家族は最重要の存在と考えなければならない。家族は道徳の根幹ともいえる。
だが、現実にいまの世の中でありうる家族を考えてみたとき、あるいは自分が今後持つかもしれない家族を思ってみたとき、そこには大きな希望をつなぐことはできない。
例えば赤尾敏の夫婦仲は、晩年はよろしくなかったと言われることなどを考えると、ますますそういう思いが強くなる。
家族というものは俗物であり、基本的に家族が世のため人のために何かをすることを喜ばない傾向にある。赤尾家も「夢ばっかり追って」と運動に邁進する敏にあきれたのがきっかけだったようだ。
ところで現在は国民の大多数が会社員である。わたしも会社員である。だがこの「会社員」ほど不思議な存在はない。会社員の家に生まれると、子どもは親が働く姿を見ないで育つことになる。会社員は安定した収入、安定した休日、分業による生産性の向上とまさに資本主義に特化した存在だが、こうした会社員を生むために犠牲になってきたのが、農村であり、家族的自営業者であり、ふるさとであった。
高齢の人に「あなたの人生で一番楽しかったのはいつごろでしたか。それはなぜですか。」と聞くと、「昭和三十年頃が良かった。家族みんなで仕事ができたからだ。」と答えるのだという。家族みんなで仕事が出来る機会を、都市は、会社は、奪ってきた。経済発展のために。
その結果、家族の繋がりはとても薄いものとなり、「親子の縁もカネ次第」の世の中となってしまった。艱難辛苦を共に乗り越えることのない、抽象的なカネでしか結びついていない関係となってしまったのである。これでは家族関係が希薄化して当然だ。
大家族制も解体され、核家族さえ希薄化した今、われわれは砂粒の個でしかないのだろうか。
>家族の繋がりはとても薄いものとなり、「親子の縁もカネ次第」の世の中となってしまった
これはどうなんでしょうか。ニートや引きこもりの子供を養う家庭や、老いた親の介護をするために子供が仕事を辞めて世話をしている家庭もありますよ。例外でしょうけど。
これらの家庭は親子共依存などと否定的に見られがちですが、穀潰し・役立たずと蔑まれがちな家族を養い、艱難辛苦を家族が共に味わい乗り越えようとしているという点では、まだ旧来の家族機能を色濃く受け継いでいるのではないかとも思います。
それにしても会社員という職業は、親の仕事、稼業を継承できず、また子孫に自分の仕事を継がせることができない、という点を観ても反家族的な職業といえますね。
親子間の「継承」「世襲」ということができない職業では、どうしたって先祖や子孫との繋がりは意識できず、運命共同体としての家族の一体感というものも醸成できないでしょう。
皇室や伝統を重んじる保守派は、本来さっさと会社員なんか辞めるべきなのでしょうね。
N様
コメントありがとうございます。
たしかに介護などではまだ家族に依存している面がありますね。
負担が大きすぎるのではという思いもありますが、
北欧みたいに家族と引き離すのもいかがなものと思います。
世襲も出来ず、家族がバラバラの仕事に就くのは本来の姿ではないという思いと、
それでも現代社会は結局会社員にならなくては金銭的に生きていくのは厳しい
という現実を見てしまう両面の自分がおります。
しかし生きるために会社員を続けるにしても、今の若者は恋愛や結婚をするのも難しくなっているんですよね。
女性は上方婚志向が強く昔よりもわがままになり、男は経済力が低下。また男女とも互いに対する不信感や不満から、結婚が成立しづらくなってます。
一方地方では雑草に覆われた荒れ墓や無縁墓が増え、先祖の墓を守る人も減っています。
家のために結婚し跡継ぎの男児を作ることもできず、先祖の墓の近くに住み墓を守り続けるのも叶わない。
このような状況で、自分一人がただ生きるために都会で会社員をやって小銭を稼ぐという行為に、果たして何の意味があるのかと虚しくなります。
N様
自由恋愛を前提とする限り未婚率は上がる一方だし、要求が高くなるのも当然の摂理です。
そしてもはや核家族化した日本に本当に「家庭」はあっても「家族」などあるのか、暗澹たる気持ちになります。
そして上記の事態は「会社員」という形態を認めた時点で「いつか来る道」である気がしてなりません。
しかしいま思想という次元ではともかく現実に会社員以外で生きていく道は狭く険しくなる一方で、これも悲観的な気持ちになってしまいます。