前回に引き続き天皇論五部作の内容をメモしておく。天皇論五部作は一作がそれぞれ千ページ以上あり、なおかつ内容が非常に難解なので、わたしの読み違いもあるかもしれないことを申し添える。
今日は『天智天皇論』についてである。『天智天皇論』と銘打ってはいるが、実質的には崇神天皇から天智天皇までの御代の歴史をたどっている。
『神武天皇論』は神武肇国を日本民族の復古的大前進運動であり、民族固有の精神の自己実現であったと説く。それに比して天智天皇の大化改新は神武肇国の復元現象と捉える。
崇神朝、垂仁朝では、日本人の信仰上の「大革命」が起こったとする。そのきっかけは崇神朝に起こった大疫病である。これを大物主神のたたりと捉え、大物主神を讃える必要に迫られた。疫病は祈りによりおさまったが、その結果天皇は現人神的存在から最高祭司の立場に立つことになり、シナ化に一歩踏み出すこととなってしまったと説く。そのうえで垂仁朝には偉大な皇大神宮五十鈴宮(伊勢神宮)を生んだことを評価している。それは日本人がすめらみこと信仰を離れては実在し得ない証であるとしている。
仁徳天皇の仁政はシナ儒教の受け売りではない。
雄略天皇は皇位継承候補者を次々殺して皇位についた「大悪天皇」であるがシナとの枢軸貿易体制を確立したことは評価している。
蘇我馬子による物部氏の滅亡によって古神祇宗教を身をもって護持するものが中臣氏だけになってしまった。馬子は崇峻天皇を弑逆し、蝦夷は病弱な舒明天皇の治世を完全に牛耳っていた。
大化改新の根本精神はこの徐々に失われてしまった古神祇宗教のの回復、皇道精神であって、拝佛、拝儒ではない。聖徳太子の仏教偏重体制とは異なる。
聖徳大使は仏教偏重体制を築いた点で批判しているが、仏教を日本的に発展解釈した功も認めている。
天智天皇による大化改新の偉業は皇道国体を確立する無比の大業を確立した。
班田収授法はシナの制度のモノマネではない。後の世の学者がつけた呼び名に過ぎない。
かんながらの道とは神道の一派と考えるような存在ではなく、すめらみことを中心とした一致協力体制を築いた。
権藤の叙述と比較すると、民生、農本、社稷に対する考察は非常に少ない。むしろシナとの違いを述べるのに文量が割かれる。若干物足りないところ。