令和2年12月6日、崎門学研究会主催の「高須藩ゆかりの地をめぐる─尾張藩尊皇思想の継承者」が開催されました。まず、山県大弐の墓参のため全勝寺(新宿区舟町11-6)を訪れました。
大弐は、徳川幕府全盛時代に国体思想を鼓舞して死罪になった明治維新の先覚者の一人です。明治25年にジャーナリストとして活躍した福地桜痴は「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べています。
大弐が著した『柳子新論』は、幕末の志士に強い影響を与えました。例えば吉田松陰の考え方を討幕論に転換させたのは、勤皇僧・宇都宮黙霖ですが、その際黙霖が松陰に薦めたのが『柳子新論』でした。大弐の思想は久坂玄瑞にも強い影響を与えています。久坂は『俟采擇録』において、「山県嘗て柳子新論十三篇を著す。……徒を集めて兵を講じ、天朝を尊みて覇者を抑ふ。其志寔にあわれむべし。竟に幕府之を判じ、不敬の至り斬に処す。ああ高山仲縄(彦九郎)・蒲生君平よりさきに既にこの人あり」と書いています。
ただ、『柳子新論』には、放伐論を容認した箇所があるという重大な問題もありました。「利害(第十二)」において、大弐は「湯王や武王の放伐は、無道の世においても有道のことをすることができたので、これらの人は天子と為り、相手の紂王や討王は賊になった。たとい臣民の地位にいる者でも、この革命の原理を善用して人民の害を除いて、人民の利益を興すことを志すならば、放伐することさえも仁と認めることができる」と書いていたのです。それでも、天皇親政の回復を説いた大弐の思想が明治維新の原動力となったことは否定できないところです。
さて、全勝寺には山県大弐記念碑も建っています。明治維新から100年、大弐没後200年に当たる昭和42(1967)年に建立されたものです。興味深いことに、建立したのは『思想の科学』グループの市井三郎・竹内好・鶴見俊輔らでした。碑の表面には近藤鎰郎による円型のレリーフ肖像が彫られ、『柳子新論』の一節が刻まれています。そして裏面には、「明治維新ノ思想的・実践的先駆者デアッタ山縣大弐ノ没後二百年ヲ記念シテ明治百年ノ年 大弐ノ命日ニコレヲ建ツ 日本人民有志」とあります。