書評:中島岳志『保守と大東亜戦争』


まったくひどい本があったものだ。
わたしは原稿を書くにあたっては氏の著作を大いに参考にしているところがあり、見解の相違を感じながらもその著作には敬意を払うものである。しかし本書はひどい。粗雑、ご都合主義というに尽きる。論理破綻、矛盾も甚だしい。

いちおうあらすじを紹介しておくと、いわゆる保守思想家として名高い竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、福田恒存、池島信平、山本七平、林健太郎らは戦後の革新思想にも批判的であったが、同時に戦前の大東亜戦争に批判的であった。
一方で「その後の世代」である渡部昇一、中村粲、小堀桂一郎、石原慎太郎、西尾幹二らが大東亜戦争肯定の立場であり、それが著者には納得できないのだという。
元来保守主義は理性を過信せず、設計主義的な革新を厭い、熱狂から遠いものだ。「その後の世代」の言論は保守主義と異なるところがあるのではないか、というものだ。

こういう意見があること自体は否定するつもりはない。
おおまかな筋だけ聞くと「そういうこともあるのかな」と思ってしまう。

だが中島氏による上記の論証たるや支離滅裂なのである。
理由は簡単で上記で取り上げた人物はそれぞれ意見が異なるところがあるのにそれを見ずに、上記ストーリーにそぐわないものは完全に無視しているからだ。
なので少しでも上記著者の著作を読んでいるものには違和感だらけになってしまう。

一例をあげよう。
田中美知太郎や猪木正道は、戦前はアナキズムに共感する思想を持っていた。アナキストと保守派が意外に共通するところが多いのはそれはそれで興味深いテーマなのだが、それは本稿とは関係ない。ポイントはアナキストが戦争に反対の考えを持っていたところで、それは「保守主義が戦争に反対だった」ということになるのか? という素朴な疑問である。
戦後のイメージで「保守」としているだけではないのか。しかも中島がこれらを知らないはずがなく、確信犯的ミスリードではないのか。

二つ目。
保守派が大東亜戦争を肯定するのはおかしいし、南京虐殺や従軍慰安婦否定はなおおかしいと述べている。だが南京虐殺否定の最初のきっかけは何か。それは中島がいう「保守主義者」に入れている山本七平の「百人斬り」批判である。もちろん山本は「百人斬り」を否定しただけだといえる。だがそれをきっかけに南京虐殺否定論が起こっていることは疑いない。これを無視するのはおかしいのではないか。

三つ目。
中島氏は、竹山道雄が親戚である一木喜徳郎にならって天皇機関説を肯定し、筧克彦の天皇親政論は狂信的で「唐人の寝言」だと考えていたことを紹介する。竹山がそういう考えであったことは確かだろう。ところで中島先生、保守は理性を妄信しないのではなかったのですか? なぜ天皇機関説の時は「理知的」「制度設計的」な機関説を肯定して、天皇親政論を退けるのでしょう? ご都合主義ではないですか。「懐疑の精神」なるものは天皇機関説のどこにあるのでしょう。ちなみに上杉愼吉といい、筧克彦といい極めて冷静に天皇親政論を語っているので、熱狂には当たらない。

四つ目。
猪木正道が河合栄治郎と研究会を行い、その死にあたっては「日本軍国主義」に殺されたと痛憤した旨紹介している。だが単なる病死の河合を「日本軍国主義」に殺されたというのは大分熱狂しているように見える。またこの時猪木が読んで感動したという西谷啓治『世界観と国家観』を紹介しているが、西谷は京都学派で「近代の超克」を論じた人物ではないか。整合性がなさすぎるのではないか。

五つ目。
「その後の世代」の議論の紹介が、中村粲と小堀桂一郎くらいしか行われていない。
まさか「日露戦争までは良かったがその後軍部が統帥権を振りかざし暴走したからよくない」と言っていた渡部昇一や神道系の議論を嫌う西尾幹二では都合が悪かったからではないかとうがった見方をしてしまう。

それにしても、ストーリーを定めてそのストーリーに沿うものだけをピックアップする論法はずいぶん「構築主義的」「設計的」で「懐疑の精神」に欠けるのではないかと思うがいかがだろうか。

コメントを残す