渥美勝『日本の宣言』より


戦前、独特な思想を展開した維新者である渥美勝は以下のように書いている。

社会主義にカブレル事は考へねばならぬと同時に、資本主義にカブレル事も同様に危険である。私の云ふ危険とは、警官などが噪ぐやうに、皇室や又は国家に取つて危険だと云ふのでは無く、日本の内部生命に取つて危険だと云ふのである。
資本主義者が右手の唯物史観を生命としてゐるそれが危険なのである。然るにその右手の危険に反対な左手の危険―社会主義を持つて来て、一体日本の生命、私たちの先祖や子孫を何うしてくれると云ふのだ? 眼覚めねばならぬ。資本主義は日本では御免蒙らなければならぬと同時に、唯物史観をギヤアギヤア云ふ社会主義も亦御免蒙る事だ。
先ごろ、「財産奉還論」が主張されたが、日本の行き方は昔からこれだ。行き詰つて困つた時は総て天子様に奉還する事だ。最近に於ては徳川幕府が行詰つて大政を奉還した。徳川氏はマツリ(祭り)をマツリゴト(政事)にせず、武力によつてやつたので、遂に行詰つて天子様に奉還したのである。
頼山陽は日本外史に於いて頼朝の鎌倉幕府の条で「此時よりして政権武門に移る」と云つてゐるが、これローマの如く武力を以て横領したのである。即ち頼朝より徳川に至るまでの間は武力による豪族の横領時代である。その時代には侍は「斬り捨て御免」とか「斬り取り強盗武士の習ひ」とか云つて、之を武士の特権だと為してゐた。これでは町人や百姓は堪つたものぢやない。武士と云ふと聞えは良いが、これではその実、大江山の酒呑童子のやうな山賊の行ひと何等異る所はない。
私は彦根の産だが、徳川が山賊の大将とすれば、彦根の殿様井伊侯は差し当たり山賊の小頭位に当る。私の家は井伊の家来で三四百石貰つてゐたから小頭に使はれる小者位の者であつた。それが徳川の大政奉還によつて山賊稼業を止めた訳である。これでやつと神ながら日本が現出すると思つたが、豈図らんや今度は別な横領舞台が開けた。「斬り取り強盗」が止んだと思ふと、今度は「算盤取り強盗」が始まつた。「斬り捨て御免」は廃止されたが、新たな「喰はさず捨て御免」は黙認されてゐる。これではローマの真似は止めたが、ユダヤの上半身が残つてゐる訳である。
諸君、日本の神ながらなる、在るべき姿は、さうした事実や同胞のある事を許し得ない。故に諸君はこれを徳川が止めた様に、資本家に向つて資本を奉還して貰ふ事を、日本の生命のドン底から要求せねばならぬ。天祐と云ふ事は、日本では、困つた時には之を柔順に親爺様の処へお返しする事を云ふのだ。
(『日本の宣言』平成十一年復刻版80~81頁)

皇道経済論の一つである財産奉還論が展開されているほか、明治維新に対する歴史認識も興味深い一節なので紹介した。

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