アンリ・ファーブルの『昆虫記』は、大変有名な本の一つであるが、意外にその中身を知らない人が多い。ファーブルの『昆虫記』は昆虫の観察に関する回想録であるが、その中に折々ダーウィンの進化論に対する批判が挟み込まれている。そしてまさにこのことこそが、ファーブルが『昆虫記』を執筆した動機とも思われるのだ。ファーブルはおそらくキリスト教的発想から進化論を批判し、昆虫は本能によってその社会を形作っているということを研究した。その成果が『昆虫記』なのである。その成果は日本でも早くから注目されている。
ファーブルの『昆虫記』を日本で初めて紹介したのはキリスト教的社会運動家賀川豊彦だと言われる。だが、賀川の叙述の段階からすでに『昆虫記』を適者生存弱肉強食批判として読み替えている。実際に自然界の摂理から弱肉強食を批判したのは、戦前発禁されていたクロポトキンであり、ファーブルはそのクロポトキンの文脈で理解され紹介されてきたという歴史的経緯がある。
ところで、ファーブルの『昆虫記』を初めて全訳したのは賀川ではなく無政府主義者の大杉栄である。先ほど書いた賀川がファーブルの日本での最初の紹介者だというのは、大杉訳の『昆虫記』の序文に依っている。大杉はファーブルに関する情報を賀川から得て、初めて読んだファーブルの著作も賀川から借りたものだという。しかし、大野正男氏はファーブルを日本で初めて紹介したのは賀川ではなく、他にも先例があるという。詳しくは氏の研究を読んでいただきたい(大野正男「大杉栄『昆虫記』までの日本ファーブル史」日本古書通信平成23年9月号~10月号)が、結論を言えば明治43年の三宅恒方、内田清之助「ふをるそむ氏昆虫学」が最初だという。ただしここでは断片的に触れられているのみのようだ。他にも大野氏が何名かファーブルの紹介例を挙げているが、まとまったものは賀川、大杉の時代まで待たなくてはならないようだ。ところでこれまで、『昆虫記』と当然のように述べているが、原題は「Souvennirs Entomologiques」というそうで、直訳すると「昆虫学的回想録」となるそうだ。これを『昆虫記』と訳出したのは大杉の感性の賜物で、古事記や太平記などの書名を背景とした命名であろうと先行研究でも指摘されている。この『昆虫記』という人の耳目を引く題名は他の訳にも利用され、シートンの著作は『動物記』と訳され、牧野富太郎は自らの著作を『植物記』と名付けるなど日本社会における影響が大であった。
『昆虫記』で批判されたダーウィンの進化論であるが、その進化論は、当時の日本では、資本主義を肯定する者にも否定する者にも広く受け入れられていた。そして、その生物進化の法則を社会的に適用したダーウィニズムが、立場を超えて様々な論客の間にも浸透していた。徳富蘇峰の「将来の日本」は武力社会から平和社会に進歩すると論じていたし、陸羯南も『国際論』で、欧米の文化一色になっては世界の文化の進歩は望めない、として東洋文化を護っていくことを主張している。資本主義者は競争の結果を「適者生存」とみなし正当化し、共産主義者は「資本主義から共産主義に進歩しなければならない」と考えていた。
不思議なもので、大杉は『昆虫記』の訳者でもあるのだが、ダーウィンの進化論、『種の起源』の訳者でもあるのだ。大杉は丘浅次郎(実は丘も『昆虫記』の初期紹介者のひとりである)の『進化論講和』の愛読者であった。明治期の社会主義者にとって、『進化論』は社会主義と矛盾するかということは大きな関心事であったし、日本社会全体がこのダーウィンの進化論から発展した俗流の社会進化説に賛同・反発両面で大いに囚われていた時代でもあった。「社会進化説」は封建主義から資本主義を経て社会主義に進化するものとして、唯物史観にも使われたくらい社会主義と縁が深いものであったが、同時に適者生存、弱肉強食を正当化する理屈でもあり、真正面からこれを唱えることは社会主義者にとっては抵抗があったに違いない。こうした矛盾した両面の影響の中で進化論とその批判は受け取られたのであった。大杉がダーウィンの『種の起源』を翻訳したのは大正三年から四年にかけてであり、『昆虫記』訳出の時期(大正十一年ごろ)より早い。余談ながら進化論に関しては、昭和天皇が生物学者の姿を持つことが、戦後から世に広められたと誤解されているが、実は戦前からマスコミを通じて積極的に広められていた。「科学者としての天皇」は戦前社会が求めた一面でもある。ただし「現人神」としての天皇と「科学者」としての天皇が特に進化論関連について矛盾しないかということについては敏感な問題だったようで、天皇の研究が生物の形態研究にとどまっており、進化論の哲学的理論に進んでいないかは西園寺公望なども注目している(右田裕規『天皇制と進化論』163頁)。そういえば北一輝は昭和天皇を「クラゲの研究者」と軽蔑するように呼んでいたという話が渡辺京二などによって語られ、北が尊皇的でなかった証として語られる。それはあたっているかもしれないが、進化論と現人神の関係を見るとまた別の側面もあるように思える。
さきほど社会ダーウィニズムについて書き、大杉が『昆虫記』の訳者であると同時に『種の起源』の訳者でもあることを不思議だと書いたが、実はダーウィンの進化論は、強いものが勝つというよりは環境に適用したものが勝つという内容であった。その意味では、「進化論」と『昆虫記』の両立も可能だったのかもしれない。
石川三四郎もまた『昆虫記』を部分的に訳出しているが、そこでは「彼等は淘汰だの、隔世遺伝だの、生存競争だのを持ち出して論証する。成る程堂々たる言葉だ。が、私には寧ろ幾分かの、つまらない事実のほうがいゝ」と述べ、生存競争を否定的にとらえた(「昆虫哲学序論」『近代日本思想体系16 石川三四郎集』196頁)。これは抄訳だからこそ石川の関心がどこにあったかが伺えるのである。
現行版岩波文庫の『昆虫記』を訳した林達夫と山田吉彦(きだみのる)は思想的信念から『昆虫記』を訳したのであろうか。二人ともフランスびいきであったようだが(『歴史の暮方』中公クラシックス版38頁)、それだけであろうか。
林達夫の妻は和辻哲郎の妻の妹だった。和辻と林は戦後『思想』という雑誌でともに活動した。林はマルクス主義からの脱皮を自力で行おうとした。少なくとも我が国では、『昆虫記』はアナキズム的思想を持った人物に愛されてきた。アナキストは資本主義への批判者であることと同時に共産主義への批判者でもあった。林がアナキストであったかはわからないが、少なくとも「資本主義への批判者であることと同時に共産主義への批判者でもあった」ことは間違いないだろう。
きだみのるは友人関係にアナキストを持ち、旧制中学のころから幸徳秋水に関心を抱くなどの思想遍歴をたどっている。ただしきだ自身がアナキストであったかどうかはよくわからないし、それが『昆虫記』の訳と関係するのかどうかも不明である。以下わかったことだけしばし書き留めておきたい。
きだは「『昆虫記』のファーブル先生が教えてくれること」として、「虫は本能をモーターにして動く機械」であると言う(『人生逃亡者の記録』21頁)。また、人々は「考えないで行動するときは人間らしい行動を、即ち社会を勘定に入れた生活をなし、考える動物として行動する場合、人間の尊厳を失った動物となる」と言う(『気違い部落周遊紀行』113頁)。きだは、伝統にのっとり相互扶助をしながら生活することを「人間らしい行動」とし、自己利益に基づいて行動することを「人間の尊厳を失った」行動だとみなす。考える、考えないを本能に基づくか理性に基づくかの対比と同様に考えてもおそらく問題あるまい。きだが『昆虫記』に託したのは理性(=自己利益)ではない本能(=相互扶助)の生活だったのかもしれない。
ほとんど連想ゲームでしかないが、片山杜秀は『日本の右翼思想』で、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を使いながら、脳ではなく体全体で考えることが必要であると考える思想があったことを論じ、それが近代個人主義に反発するものであり、共同体みんなが生々しくつながりたいという願望を持っており、ファシズムと親和性が高いとまで言う(196頁)。片山はそれを踏まえて三井甲之など「右翼」思想家の身体論に結びつけていくわけだが、果たしてそれは「右翼」のみの思想的特徴だったのだろうか。
『昆虫記』を思想書として読む人は少ない。だが、近代の日本におけるある種の思想において、理性ではなく本能に基づく秩序の模索の関係から、『昆虫記』が注目されたことは間違いない。この問題につては今後も関心を持ち続けていきたいと考えているが、ひとまず中間報告としてここまで論じた次第である。
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◆今後の更新予定
今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。
・地理と日本精神
・陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望―
・伝統と信仰
・皇室中心の政治論
・蓑田胸喜『国防哲学』を読む
・秩序とは何か
・世界文明のために
・武士と商人