私は議員ではない。したがって、今回の安全保障関連法案(通称戦争法案)の審議の経緯や細かい内容について論じようとは思わない。むしろ関心を掻き立てられるのは、「いかなる論理で」あるいは「いかなる理由」でこの法案に賛成もしくは反対しているのか、ということだ。そこには必然的に(安全保障と言う国家の存立にかかわる議論において)何を重んじているのかと言う、その論者の価値観が露骨に出てくるからである。
さきほど、「戦争法案」と書いた。この「戦争法案」と言う名付け方の稚拙さはすでにツイッターのほうに書いた。
「戦争法案」というネーミングセンスのダサさに彼らの本気を見た。本気でハンタイしたふりだけして明日も平穏な日常を生きようとする本気を。
「戦争法案」と言う名付け方は思わずからかってやらずにはいられないようなひどいもので、とにかく戦争を恐れて逃げ惑っていればよいのだという卑怯さがにじみ出ている。自己利益しか考えられなくなった戦後の浅ましさがいかんなく発揮された言葉が「戦争法案」なのである。
太田光と中沢新一の『憲法九条を世界遺産に』と言う本がある。私は以前「憲法九条ナショナリズム」と題して、この本を取り上げたことがある。
この時に書いた認識は、今でも何一つ変わっていない。太田や中沢が今回の法案に対し、どういう態度を取ったかを私は知らない。ただ、少なくともこの本で示した矜持は、「戦争法案」と言うレッテル貼りやなぜか委員会に関係のない議員が乗り込んで、議長ではなくカメラに向かってプラカードを掲げた野党議員の態度を許さないような気がしてならない。長いが引用する。
中沢 ただですね、こういう日本国憲法を守っていくには、相当な覚悟と犠牲が必要となるということも忘れてはならない。
太田 たとえば、他国から攻められたりしたときですね。
中沢 そうです。犠牲が出る可能性がある。理想的なものを持続するには、たいへんな覚悟が必要です。覚悟のないところで、平和論を唱えてもだめだし、軍隊を持つべきだという現実論にのみ込まれていきます。多少の犠牲は覚悟しても、この憲法を守る価値はあるということを、どうみんなが納得するか。
太田 憲法を変えようと言う側と、変えるべきではないと言う側、どっちに覚悟があるかという、勝負ですね。(中略)僕は、軍隊をもとうと言っている側の方が、覚悟が足りないと思うんです。それを強く感じたのは、イラクの人質事件です。(中略)実際に香田君が殺されたときも、自己責任だったと、国も言うし、国民も言った。自分の国は自分で守りましょうと言っている人たちが、自分たちの国民を殺されて、文句一つ言わないなんて、何が国防なのかと思います。そんな人たちが軍隊を持っても、戦争なんてできないと僕は思うんですよ。
中沢 平和憲法を守れと言う人たちのほうが、現実的だという人もいます。日本の軍隊を発動させたところで、どれほどの現実的な力を持つのかと。むしろ軍隊を出すことによって、戦争に巻き込まれていく危険性のほうが大きいという主張です。むしろ、軍隊を出すことによって、戦争に巻き込まれていく危険性のほうが大きいという主張です。しかし、僕はこの考え方も、覚悟が足りないように思えます。ことはそんなに簡単にはいかないでしょうから。
日本が軍隊を持とうが持つまいが、いやおうなく戦争に巻き込まれていく状態はあると思います。平和憲法護持と言っていた人たちが、その現実をどう受け入れるのか。そのとき、多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない。普通では実現できないものを守ろうとしたり、考えたり、そのように生きようとすると、必ず犠牲が伴います。僕は、その犠牲を受け入れたいと思います。覚悟を持って、価値というものを守りたいと思う。
太田 憲法九条を世界遺産にするということは、状況によっては、殺される覚悟も必要だということですね。
太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』144~147頁
私は、憲法九条が彼らの言う「守るべき価値」に値するとはまったく思えない。だが、「守るべき価値」を設定し、それに殉じようという姿勢は素直に共感する。
私は、憲法そのものが持つ問題点を差し置いて集団的自衛権云々はおかしいだろうと思う。こうやってなし崩し的に解釈改憲を行うことで、日本のあるべき国家像を回復しようという試みは、ますます遠のくに違いない。「戦争法案」ではなく、「対米従属法案」とでも呼ぶべき代物なのではないか。
集団的自衛権は個別自衛権ではない。現実問題として、アメリカの中東政策に加担するための法案と考えてよいだろう。だが、自らの祖国を守るためでもなく、アメリカのお付き合いで外国に乗り込み、恨みを買い、戦死する人間は報われない。「テロとの戦い」は、日本が始めたことではない。たとえ世界のどの国も止めたとしても、日本は「テロとの戦い」を貫くのか? おそらくそうではあるまい。所詮アメリカとのお付き合いなのだ。そこに日本の国家意思はない。
フセインが倒されればビンラディンが出て、ビンラディンが倒れればISが出てきた。アメリカとのお付き合いで始めた「テロとの戦い」は、やればやるほど更なる過激派を生み、泥沼にはまるばかりである。こうした中東政策の帰結と、そこに追従した日本の国家意思のなさに対する総括なしに、なし崩し的に「テロとの戦い」を旗印に集団的自衛権を高唱しようなど、さらなる対米従属を招くばかりではないか。
少なくとも今回の安全保障に関する論議の中で、日本はいかなる国家像を目指すべきかと言う議論よりも、戦争に巻き込まれる、いやそうではない、などという自らの小利ばかり数えられたのは、返す返すも残念だと言わざるを得ないだろう。
私は、日米安保と憲法九条は二つで一つと考えており、この両方を改めなければならないと考えている。日本国憲法の破棄は日米同盟の破棄のために行われなければならない。少なくとも、一介の独立国が、自国に基地があり、安全保障政策の意思決定を他国に委ねている状況を正当化する理屈など何もないと考える。集団的自衛権よりもまず憲法そのものの問題と日米同盟の問題を考えるべきと言うのが私の立場である。