本を読むとき、学びの中に発見がある時


 清水幾太郎は『本はどう読むか』の中で、「著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである」(114頁)と述べている。私もそう思う。

 読むということは単純に情報を仕入れるということではない。著者と語り合い、感性で交流するということである。したがって、自らが考えていたことそのものを揺さぶる力を持つ。著者の観念の流れを追体験するということである。

 本は手あたり次第読むべきである。乱読の弊害など信じない。「「乱読」は私の人生の一部で、人生の一部は、機械の部品のように不都合だから取りかえるというような簡単なものではない。「乱読」の弊害などというものはなく、ただ、そのたのしみがあるのです」(加藤周一『読書論』岩波現代文庫版まえがきⅤ頁)。

 学問的発見は、人間が努力して見つけるといった類のものではない。もうすでにそこにあるはずなのに気づかれないでいたものを見つけていく作業だ。学問は砂金掬いとか、考古学の遺跡発掘作業に近い。学問的発見のためには、論理より情緒とか感性が必要だ。学問的発見は、世間的に見ても初めて知ると言ったものもあるが、解釈の裏返しもある。今までこう解釈されてきたけど、実はこうだったのではないか。そう思うのは決して論理ではない。読書の過程で、著者が自分に語り掛けてくるのである。その言葉を、そのまま文字にしているに過ぎない。

 世界を一色に塗りつぶすことはできない。ありとあらゆる過去があり、著者と対話することで新たな小さな発見が生み出され続ける。利害関係にばかり目が行くと、世界は一様になれそうな気がするが、人間は利害関係だけで動いているわけではない。新たな発見は人類全体にとっても発見であるかどうかはわからない。でもそれはあなたにとってかけがえのないものだ。あなたの心に芯を一本入れるものだ。そんな発見が随所で生み出されれば、世界は一様でいられるはずがないではないか。

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