良心を問え―自主防衛論―


 平成二十七年の夏は暑い夏として人々に記憶されるだろうが、こと政治的にはどこか空々しく暗鬱で、喧しくも隔靴掻痒の感を拭えないものとなった。安倍内閣の提出したいわゆる「戦争法案」が、その主役である。
 さて、公の場でまつりごとを論ずるからには、私の今回の「戦争法案」に対する態度を明らかにせねばなるまい。私は「賛成でも反対でもない」である。旗幟を鮮明にするといっておきながらその態度は何事かとお叱りを受けそうだが、しかしどう考えても集団的自衛権を語る前提が欠けているように思われてならないのである。それゆえ、賛成派の意見も反対派の意見も、どこか空転したものになっているのではあるまいか。
 さきほど「戦争法案」という呼び方をしたが、この名称のセンスのなさには名付け親の感覚を疑わざるを得ない。この法案の成立により徴兵制になるといった軽率なレッテル貼りも含めて、本当に反対する気があるのだろうか。

 国会では、安倍内閣が提出した安全保障法案に伴い、論議が盛んに行われている。本稿でその細かい議論にまで踏み込むつもりはないが、日本の国防に関しては、何をおいても語られなければならないほど重要な問題であろう。だが、肝心の国防に関する議論が、どこか空転しているような気がしてならない。これに関してはある印象的な場面があった。衆院平和安全法制特別委員会における審議の際に、野党が「反対」のプラカードを掲げたのだ。しかしそのプラカードは、議長ではなく、カメラを向いていた。メディアを通じて流布された「戦争法案」という稚拙なネーミングといい、野党は本当に法案を阻止する気があるのか、疑問に思われたのである。「戦争法案」というネーミングにはとにかく戦争を恐れて逃げ惑っていればよいのだという卑怯さがにじみ出ている。自己利益しか考えられなくなった戦後の浅ましさがいかんなく発揮された言葉が「戦争法案」なのである。この論議には、日本が国家としてどういう態度を取るべきか、日本は世界に向けてどういう態度を取るべきかという態度が決定的に欠けている。
 かつて、太田光と中沢新一が『憲法九条を世界遺産に』という本を出した。太田や中沢が今回の法案に対し、どういう態度を取ったかを私は知らない。ただ、少なくともこの本で示した矜持は、「戦争法案」と言うレッテル貼りやなぜか委員会に関係のない議員が乗り込んで、議長ではなくカメラに向かってプラカードを掲げた野党議員の態度を許さないような気がしてならない。長いが引用する。

中沢 ただですね、こういう日本国憲法を守っていくには、相当な覚悟と犠牲が必要となるということも忘れてはならない。
太田 たとえば、他国から攻められたりしたときですね。
中沢 そうです。犠牲が出る可能性がある。理想的なものを持続するには、たいへんな覚悟が必要です。覚悟のないところで、平和論を唱えてもだめだし、軍隊を持つべきだという現実論にのみ込まれていきます。多少の犠牲は覚悟しても、この憲法を守る価値はあるということを、どうみんなが納得するか。
太田 憲法を変えようと言う側と、変えるべきではないと言う側、どっちに覚悟があるかという、勝負ですね。(中略)僕は、軍隊をもとうと言っている側の方が、覚悟が足りないと思うんです。それを強く感じたのは、イラクの人質事件です。(中略)実際に香田君が殺されたときも、自己責任だったと、国も言うし、国民も言った。自分の国は自分で守りましょうと言っている人たちが、自分たちの国民を殺されて、文句一つ言わないなんて、何が国防なのかと思います。そんな人たちが軍隊を持っても、戦争なんてできないと僕は思うんですよ。
中沢 平和憲法を守れと言う人たちのほうが、現実的だという人もいます。日本の軍隊を発動させたところで、どれほどの現実的な力を持つのかと。むしろ軍隊を出すことによって、戦争に巻き込まれていく危険性のほうが大きいという主張です。むしろ、軍隊を出すことによって、戦争に巻き込まれていく危険性のほうが大きいという主張です。しかし、僕はこの考え方も、覚悟が足りないように思えます。ことはそんなに簡単にはいかないでしょうから。
日本が軍隊を持とうが持つまいが、いやおうなく戦争に巻き込まれていく状態はあると思います。平和憲法護持と言っていた人たちが、その現実をどう受け入れるのか。そのとき、多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない。普通では実現できないものを守ろうとしたり、考えたり、そのように生きようとすると、必ず犠牲が伴います。僕は、その犠牲を受け入れたいと思います。覚悟を持って、価値というものを守りたいと思う。
太田 憲法九条を世界遺産にするということは、状況によっては、殺される覚悟も必要だということですね。
太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』144~147頁

 私は、憲法九条が彼らの言う「守るべき価値」に値するとはまったく思えない。だが、「守るべき価値」を設定し、それに殉じようという姿勢は素直に共感する。安倍内閣の安全保障法案に対する賛成・反対以前の問題として、「何が守るべき価値なのか」ということが問われなければならない。
 それは与党の側も同じで、今回の安全保障論議は、要はアメリカに追従する側面が強く、日本の属国化をますます強めるものだと言わざるを得ない。
 なぜ安全保障に関する議論は空転するのだろうか。それは日本の戦後史に由来すると考えられる。
 日本は敗戦後、米国による占領を受けた。占領政策の一環として「日本国憲法」が制定され、国防は「平和を愛する諸国民」、すなわち連合国、端的に言えばアメリカに委ねられることとなった。連合国は平和を愛する国民であり、日本のような好戦的な国から軍事力を剥奪すれば、世界平和は保たれるのだという、アメリカの独善的なイデオロギーを注入された。この占領政策はサンフランシスコ講和条約により終了したが、講和が結ばれた同日に、日米安全保障条約が締結され、米国軍が我が国土に駐留する事態は継続することとなった。米国にとっては、日米安保は日本の暴発を抑止する「びんのふた」とされ、敗戦によって注入された独善的なイデオロギーは見直されることがなかった。その後、日米安保は何度か改正がなされ、「日米同盟」とも呼ばれることとなったが、日本国憲法と日米同盟という同じ根を持つ体制が根本的に見直されることなく今日まで続いてきた。

 安倍総理は米議会での演説で以下のように述べている。

「日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした」
「焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました」「米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です」
「こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
その営為こそが、TPPにほかなりません」
「親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません」
「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。(中略)この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう」
「テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS29H1E_Z20C15A4M10600/

 長々と引用したが、この安倍演説がアメリカから自由・民主主義・法の支配という普遍的価値を教わり、冷戦に勝利した、という世界観によって成り立っていることは言うまでもない。これこそ日本国憲法と日米同盟が相互依存して成り立っている「日本国憲法=日米同盟」体制だ。安倍総理は「戦後レジーム」を打破するかのようなことを言っていたが、それはなんと「日本国憲法=日米同盟」の克服ではなく、それを黒船来航以来の国是にすり替えようという動きだったのだ。日米同盟は「希望の同盟」であり、その希望はアメリカが保障するのだという。ここまでの売国政権は、なかなか思い浮かべることができない。

 今回の「戦争法案」審議も、それがどこまでアメリカの要請によるもので、どこまで安倍総理の考えによるものかはわからないが、アメリカの意向が大きな影響を与えていると考えるのが妥当であろう。アメリカから押し付けられた集団的自衛権を歓迎する心理がそこにはある。

 だがここで私は一つの疑問にぶち当たらざるを得ない。そもそも我が国に、厳密な意味での「集団的自衛権」などありうるのだろうか。あるとすれば、それは「日本国憲法=日米同盟」体制の打破なくしては不可能ではないだろうか、という疑問である。
 一般的に集団的自衛権とは、ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行うことである。だが、個別的自衛権があやふやにされている国に、そもそも集団的自衛権など議論できるのだろうか。「日本国憲法」は戦力の保持を禁じており、それは様々に解釈改憲されてきたが、自衛隊を軍隊と呼びづらいことなど、自衛権があやふやにされていることは疑いない。岸内閣のときの日米安保は、米国は日本を守る。日本は国内の米軍基地を守るという奇妙な論理で「相互」に防衛する同盟であるとされた。これが先に挙げた一般的な集団的自衛権の定義とは違い、アメリカの武力の傘の下に日本が入る条約でしかないことは自明である。日米安保条約は岸内閣以降幾度も修正されはしたが、現在に至るまで根本的に日本がアメリカの武力の傘の下に入る体制は変わっていない。端的に言って、「個」がそれぞれ独立しているから「集団」といえるのであって、「個」がないなら「集団」もあり得ないではないか。日本の「集団的自衛権」についての議論は、議論を進めていくうちにいつの間にかアメリカの個別的自衛権の話になってしまい、日本はそれに巻き込まれるか否か、という話になってしまう。それは日本の個別的自衛権が不完全だからである。「戦争法案」も、日米にとっての「危機」とは何かはアメリカが判断するのだという。なんだ集団的自衛権じゃないじゃないか。アメリカの自衛権のお話に過ぎないじゃないか。
 問題は常に個別的自衛権なのだ。個別的自衛権が不完全な国が集団的自衛権を語っても、それはアメリカの個別的自衛権への迎合にしかならず、そもそも「集団的」ではないからだ。

 もちろんアメリカはこんな体制をボランティアでやっているわけではない。それはアメリカの極東政策に沿って行われているものであり、日本もこの体制を維持するために相応の代償を支払っている。「思いやり予算」のようなわかりやすい例ばかりではない。今安倍内閣が「戦争法案」を通す根拠として使われる「砂川判決」もまた、アメリカの圧力により行われたものであり、日米同盟に関しては日本の司法権の独立性さえも失ったことを示すものなのである。それを根拠に法案成立を進めようなど、この法案の売国的性格は推して計るべしと言ったところであろう。
 友好の美名をたてに、同盟相手から利益を掠めとるなど国際政治の常套手段であり、それを行われたところで今さら非難するにも値しない。問題は同盟の厚情と各国の思惑による好運にすがるよりない我が国の国家意志のなさの方である。

 自主防衛、祖国独立の意志こそ守るべき価値である。なによりもまず日本は自力で祖国を防衛する意志を示さねば話は始まらない。陸羯南は日本の自由主義の起こりを、勤皇の志士の愛国心の発露にみた。「ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか」(「自由主義如何」岩波文庫『近時政論考』90頁)。自衛権も同じである。祖国独立の意志を失った自衛権など強者への売国的阿諛追従にしかならない。戦争末期に竹槍で闘おうとした先人や、特攻で敵艦に突撃した先人を戦後の人々は嗤ったが、竹槍を嗤う心情からアメリカの庇護のもと平和を貪る心情までは一直線に繋がっている。仮令勝てなかろうとも相手に傷一つは負わせてやる、日本人の怖さを思い知らせてやるという感情こそが祖国防衛の源泉なのだ。自衛権よ、お前は愛国心が奮い立った時に、この日本に発生したのではないのかと、私も呼びかけたい思いで一杯である。いったい、いつになったら祖国防衛の展望は眼前に開けるのであろうか。

 私は昭和六十年の生まれである。私が政治というものがこの世で行われていることを知った時には、既に占領の終了は当然のことながら冷戦すら過去の出来事であり、ロシアをソ連と言ったら笑われる時代であった。にもかかわらず国内は相変わらず占領体制に端を発する主体性のない政治を続けており、平和の祈りは米国の核の傘のもと欺瞞的に繰り返し語られて来たにすぎないのである。それは、本音は米国の傘下より脱し厳しい状況に踏み出でんとする大望を「非現実的」とせせら笑う親米論者の陰湿さと性根を同じくしている。日本国憲法と日米同盟は二つでひとつであり、戦後の密教と顕教であろう。だが、何時までもこのような状況でいられるはずがない。問題なのは、何かが起こった際に日本独自の意志を示せないことにある。次代にこのような体制を残したままにしておいてよいのであろうか。

 地中にいるうちに地表がコンクリートに舗装され、地上に出られないまま生涯を終える蝉がいるという。日本を覆う閉塞感、行く先を阻む隘路は「日本国憲法=日米同盟」からなる戦後体制である。日本はこの戦後体制という分厚いコンクリートに阻まれ生涯を終える蝉となるか、それともコンクリートを食い破り、蒼天に躍動する龍となるか、僭越ながら諸兄の志を問う次第である。

 ここまで語りながら、私には自分がある種の空しさを雄々しい空元気で誤魔化してはいないかという感慨を押さえることができない。私のような意見は議会で一議席も占めてはいないし、今後このような議論が盛り上がる気配すらないのである。
 桶谷秀昭は以下のように述べている。
 「敗戦時の空白と寂しさがわたしに教えたものは、体制であれ反体制であれ、およそ支配イデオロギーはその中核に決定的な虚偽を隠蔽して、のさばるということである。そしてその虚偽を見抜くのは、すべての橋を焼き、己一個の生存の暗い根底に立ったときである。敗戦時の感慨は、国破れて山河あり、であった。戦後二十五年の今、国は復興して山河は滅びようとしている。公害だけではない。われわれの内なる日本の滅亡である。これがほんとうの滅亡ではないか。/わたしは今年の八月十五日も、雑炊をくらい、竹槍を削るつもりである」(『凝視と彷徨 上』254頁。/は原文改行)。
 私は政治家や自衛官に大きな期待を持つことはできない。権力が物事を解決するとは思われない。ただ私は今回の「戦争法案」の審議を眺め、「嘘だ」と呟くよりない。それは私の良心がそうさせるのである。
 権藤成卿は、理想の実現のために軍閥に期待すべしという自らの支持者に対し、政党や財閥が汚いのは無論だが、軍閥も汚い。綺麗なのは皇室とそれを戴く国民だけだ。私は唯綺麗なものが欲しいのだ、と述べた。自分が自分を支配しなければならない(自治)と述べる権藤に対して、支持者は新たに自分を支配する権力者を見つけたがっているだけだ。だが、己の良心は誰にも支配することができない。良心を信じず権力を信じる心から、米国、金持ち、与党、数の力などあらゆる強者への屈従が始まってくのである。

 日本はコンクリートに阻まれて身動きできない蝉に違いない。だがその蝉はそれでも活路を求めてコンクリートに皸ひとつでも入れんとする蝉である。そう信ずるよりない。この蝉の生きざまにしか、未来を託すべきものは見当たらないのである。

「良心を問え―自主防衛論―」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。
    以前より貴ブログを拝読しておりました。現状の既存メディアでよくみられる表面的な議論とは異なり、深みのある内容で、大変読みごたえのあるブログと感じています。
    今回の内容ですが、概ね同意します。特に、「賛成派の意見も反対派の意見もどこか空転したものになっている」、「守るべき価値は何かを問うべき」、という点です。守る対象の価値と、それに伴う犠牲とを勘案した議論が必要であると思います。
    安全保障に関して、どのような道をとるにせよ、自国・他国双方の動向によって状況が変わり得るということに変わりはなく、その点でリスクはゼロにならないのですから、生じ得るリスクに対する相応の覚悟は必要でしょう。
    狭義の9条護持(これは安全保障とはいわないのかもしれませんが)であれば、上でも述べられていた、殺されるリスク、現状の体制における集団的自衛権行使容認なら、自国にとって不要な戦争に巻き込まれるリスク、自主防衛路線への転換なら、自国の判断一つで亡国へと導き得るリスク、といったところでしょうか。もちろんリスクは他にもあるでしょうし、あらゆるリスクは常に存在していて、とられる路線によってその割合が変わるのみである(どのリスクもゼロにはできない)、と考えることもできると思いますが。

  2. 服部様
    ご覧いただきありがとうございます。
    また、過分なお褒めのお言葉を頂戴し、身に余る思いです。
    おっしゃられる通り、重んずべきものとそれに伴う犠牲(リスク)とをはかりにかけ、決定していく態度は為政者にとっては必須なことだと思います。
    しかし本稿で私が述べた「守るべき価値」はそれよりも重く、「損得勘定で計りえない価値」といいますか、損得を考える以前の問題として絶対に譲れない価値のことです。
    そうした価値が見えなくなっていることを、例えば記事中に引用した桶谷先生などは「内なる日本の滅亡」と呼んでいるのではないでしょうか。
    より踏み込んだことを言えば、為政者が持つ「重んずべきものとその犠牲をはかりにかけて物事決めるバランス感覚」は、市井の人間が持つ、「譲れない価値」を持ちその実行を迫る態度を時に利用し、時に裏切ることがあります。これはどちらが悪いなどとは言いようのないものですが、ある種避けようがない宿命的対立ともいうべきものです。愛国者はいつも体制派であるとは限らないのと同様に、為政者は時に愛国者を煙たがることもあるということです。もちろんそれは為政者の思想(保守化リベラルか)などとはまったく関係なく表れることです。
    長くなってしまいましたが今後もご覧いただけましたら幸甚に存じます。

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