皇室中心の政治論


 物事の本質は、何年経とうが、何百年経とうが決して古びない。
 二七〇〇年近くある皇室の歴史の中で、立憲君主であった時期はそのごく一部にすぎない。したがって、「立憲君主としての天皇」は天皇という存在の一面ではあるが、天皇という存在のすべてではない。ところが、成文憲法なるものができて以降、天皇は立憲君主としての存在がすべてであるかのような誤解が広まってしまった。それだけでなく、「成文憲法」という考え方を編み出した海の向こうの言葉でしか、天皇を語れない人間が出てくることになった。「天皇は国家における最高機関である」という天皇機関説がそれだ。天皇主権説にも、天皇機関説ほどの臭みはないにせよ、そのきらいがあった。戦後の「象徴天皇」もまた、海の向こうの人間が考えた理屈である。
 我々は海の向こうの言葉ではなく、我々自身の言葉で、「天皇」という存在を語っていかなければならないのではないか。それは、私一人でなすには荷が重すぎる論題である。だが、そのきっかけとして、考える材料を提供することくらいはできるのではないか。そういう思いで本稿を書き進めていきたいと思う。

 天皇主権かどうかという論争は天皇機関説論争が有名であるが、それ以前から日本の国体をめぐる思想において重大な関心を持たれていた。明治七年の民撰議員設立建白書のころ、阪谷素という人物が、「天皇が万世一系であることは言うまでもないが、その下での政治は、皇国も諸国同様中世以来一様ではないので、政体は大臣合議の内閣制か君民同治の議会制を採らなければ人心は共和の説に向かってしまうかもしれない」と建議している(坂野潤治「西欧化としての日本近現代史」『現代日本社会4歴史的前提』東京大学社会科学研究所編、21~22頁)。この阪谷の意見は、果たして「天皇主権説」の側なのだろうか、それとも「天皇機関説」の側なのであろうか。坂野は明確には述べていないものの、この阪谷の意見を「天皇機関説」の先駆としてとらえている節がある。なぜ坂野がこの意見を機関説の側と見なすかといえば、内閣や議会を重んじるのは「天皇機関説」の側だという思いがあるからだろう。当たっている部分もないではない。確かに天皇主権説は天皇独裁説であるかのように語られることが現代でも珍しくない。だが本当にそうだろうか。
 例えば天皇主権説論者である穂積八束は「大権政治は大権専制の政治には非ず。専制ならんには、之を憲法の下に行うことを許さざるなり。君主の大権を以て独り専らに立法行政司法を行うことあらば、即ち専制なり。同一君主の権を以てするも、立法するには議会の協賛を要し、行政するには国務大臣の輔弼に依り、司法は裁判所をして行わしむることあらば、分権の主義は則ち全たし。権力の分立は、意思の分立を意味す。国家意思の絶対の分立は、国家の分裂なり。唯主幹たる意思の全体全体を貫くあり、而して之に副えて、其の或種の行動には、更に或種の機関意思之に加味せらるることあらば、統一を損することなくして専制を防ぐに足らん。之を立憲の本旨とす。大権政治とは大権を以て此の主幹たる意思とする者の謂なり。」(穂積八束『憲政大意』244頁。原文カナ、旧仮名遣い、旧字)即ち穂積は国家意思の分裂を防ぎ、権力の分立を図るためにも天皇大権の確立が必要だと説いているのである。それに対して美濃部は「穂積さんは主権を以って絶対無制限の権力であると言い、その意味においての主権が我が憲法上天皇に属するのであって、即ち天皇の主権は絶対無制限の権力であり、主権を制限する如何なるものも存在しない」と考えていると、全くの無理解を示している(高見勝利編『美濃部達吉著作集』113頁)。もちろん穂積は天皇独裁を主張したのではない。国家意思が天皇にあると述べたのである。美濃部には「内閣政治」を重んじ、「立憲独裁構想」があったとも言われる。美濃部は明治憲法の解釈改憲を目指した(坂野潤治『日本政治 失敗の研究』16~18頁)と言うが、要するに天皇に属する国家意思を内閣に属させようとするものであった。そのために唱えられたのが天皇機関説であった。天皇主権説と天皇機関説の違いを押さえるのはとても重要なことだ。だが両者を真逆なものと考えすぎるのも誤解を招く。主権説も、天皇が持つと考えた国家意思とは「これからは立憲制を採用する」という類の国家の大方針であって、当然細部は輔弼者が上奏し責任を負うものだと考えていた。一方で機関説も内閣の働きを重んじたが、皇室を廃そうとしたわけではなかった。
 余談ながら、戦後、「大日本帝国憲法は国民の権利を「法律に定めるところによる」と書き、人権を制限していた」という悪質な認識が流布された。だが、大日本帝国憲法が欽定憲法であることを思えば、これは「臣民の権利は法律で臣民相互に決めるべきで、主権者(=天皇)はこれを侵害できない」という宣言であった。これを唱えたのは穂積八束である。穂積が天皇独裁論者であるとは悪質なデマであろう。
 余談ついでに言えば穂積は「古来仁君名主ト称スル者ハ多クハ社会主義ノ臭気アリ」と述べ、貧困層を保護する権力を保持しなければ不測の事態も起こるかもしれず、主権を制限する説は社会の前途のために憂うべきところがあるとして、革命の未然防止という観点ながらも弱者救済にも関心を持っていた。国民の利害関係による軋轢は、天皇が主権者として確立されていなければ調和できないと考えていた(穂積八束「国家社会主義志向」長尾龍一編『穂積八束集』145~148頁)。
 あるいは元田永孚は天皇親政論を述べたが、それも薩長の専制を抑止するために唱えられたものであった。天皇主権論はむしろ政治実務担当者の私物化を妨げる目的で唱えられていたと言ってもよい。そう考えたとき、天皇主権説の問題は、天皇独裁か、民本主義かと言ったような単純な二者択一の問題ではなく、日本という国の公的意志はどこにあるのか、どうやって実現するのか、という問題として現れるのである。これは現代でも大いに問うべき問題ではないだろうか。もっとも、当時から天皇主権説は天皇独裁説と錯覚されたし、天皇機関説は皇位を廃する、あるいは無力化するものと思われたため、議論は平行線をたどることになった。
 整理すると、天皇主権説とは、政治実務担当者の私物化を防ぐために天皇大権を強く確立し、その中で立憲政治を行うという思想である。反対に天皇機関説とは、君主の国政の私物化を避けるために内閣や議会の働きを重んじるところがある。もっとも、美濃部は二枚舌的なところがあり、その言っていることが私にはよくわからない。ただ、君権を制限することなしには民衆の意志を政治に反映させることはできないと考えている点、天皇を公的存在とは考えず、国政を私物化する恐れがあると考えるところに、何かいかがわしいものを感じざるを得ない。蓑田胸喜が美濃部の著書を「大逆的怪文書」と評したのを、私は過剰反応だとは思わない。
 だが今必要なのは機関説を批判、否定することではなく、主権説論者および部分的批判を含みながらそこから派生した思想が、何を言っているかを虚心に眺めることではないかと考え、しばらく議論の紹介を続ける。
 上杉愼吉は「国体に関する異説」で「仮令心に君主々義を持すると雖も、天皇を排し人民の団体を以て統治権の主体なりと為すは、我が帝国を以て民主国なりと為すものにして、事物の真を語るものに非ずと為すのみ」と言う(『近代日本思想体系33 大正思想集Ⅰ』6頁)。
 あるいは蓑田胸喜は「帝国憲法第十条に曰く『天皇ハ行政各部ノ官制及文武官の俸給ヲ定メ及文武官を任免ス』と。(中略)行政法を講ずるもの、その直接の第一依拠を本条に求めざるもの一人としてなきにも拘らず、美濃部氏を始め従来殆どすべての行政法学者は異口同音に『行政権の主体は本来国家である。』の語を以てその論理を進むるのである。これいふまでもなく憲法論上に於ける『国家主体・天皇機関説』の行政法論へのそのままの適用である。即ち、『統治権の主体』を以て国家となすの結果、その統治権の一成素たる『行政権の主体』も亦国家なりとするのである」(蓑田胸喜『行政法の天皇機関説』原文旧字、蓑田胸喜全集第六巻231頁)という。
 両者がここでこだわっていることが『統治権の主体』という言葉であることに注目したい。「統治権の主体」即ち「主権」なのだが、現代風に言い換えれば、政治の正当性あるいは正統性の所以ということではないだろうか。なぜ政府は行政的命令を国民に発する権限があるのか、その由来は天皇ではないのか、単に国民としてしまってよいのか、と問うたのである。あるいは、行政官は天皇に任命されるが、それは天皇が大権を持っているからではないのか。大権を持っていないものがどうして任命できるのか、と問うたのである。
 現在でも総理大臣は天皇から任命される。実質的に選挙でもっとも多く議席を得た党の総裁が自動的に選ばれているとしても、この際それは大した問題ではない。なぜならそれは「政体」の議論であって「国体」の議論ではないからだ。身もふたもない言い方をすれば「国体」とはタテマエである。建前としての政治を行う根拠、それは国民に支持された(=機関説)からだろうか、それとも天皇に統治を委託された(=主権説)からだろうか。
 今、「天皇に統治を委託された」ことを「主権説」の論理として書いた。これは読者に違和感を与える論理かもしれない。だが主権説論者が天皇独裁を主張したことなど一度もないのである。統治を委託した、ということは、元来統治は天皇が行うもの、という意味が含まれている。すなわちそれは「統治権の主体」、つまり主権が天皇にある、ということではないか。天皇主権説とはごく常識的な主張である。
 仮に「国民の多数が支持している」ことに政権の正当性の所以を求めた場合、果たしてその政権は正当な政権と言えるだろうか。仮に本稿を書いている現在の安倍内閣で思考実験してみよう。
 安倍内閣はたしかに議席数は過半数を超えている。自公政権という意味では衆議院では約2/3を占めている。だが自民党、公明党に投じられた票数は全票数の過半数を超えていない。つまり「国民の過半数が自公政権を支持しなかった」と解釈することも可能である。にもかかわらずなぜ安倍政権が正当性を持てるのだろうか。
 あるいは仮に過半数を超えていたとしても、過半数を超えていたらなぜ統治してもよいのだろうか。仮に6割の国民が支持したとしても、5000万人近い人が支持しなかったことになる。いったい何の権限があって、政府はこの5000万人にまで行政命令を発し、税金を徴収し、場合によっては戦場に送り込むことが可能なのだろうか。もっと言えば、仮に政権交代が行われた場合、なぜ前の政権と今の政権が連続していると言い得るのだろうか。誰の許可を取って引き続き税金を徴収し外交権を行使するのだろうか。答えは一つしかない。日本の歴史、伝統、文化、信仰、そして統治権を体現する天皇に委託されたからではないのか。それではなぜ皇室は統治権を持つのか。これは自明である。「天壌無窮の神勅」というものがあり、そこに日本は天皇が永遠に統治する旨が書かれているからである。明治憲法ではそれを「万世一系の天皇之を統治す」と表現した。私は日本史上において「天皇の統治」が揺らいだところを知らない。摂関政治が行われようとも、幕府ができ将軍がいようとも、それらはすべて「天皇の臣下」であり、臣下として統治権を行使したに過ぎない。臣下としての立場を忘れかけた人物は、史上に何人か思い浮かぶが、それらの人物は忘れかけた途端、何らかの政変により打倒されることになった。「天皇の統治」は今に至るまで全く揺らいでいない。
 余談ながら多数決と言うのは一見合理的に見えて、実はかなり怪しい部分をはらんでいると言わざるを得ない。なぜ過半数の意見を国家全体の意見とみなしてよいのか、それを近代西欧思想はあれこれ理屈付けてきたわけであるが、私などはどこか胡散臭い部分を感じずにはいられないのだ。もちろん、多数決による意思決定以外対案が出しづらいのは重々承知しているが。

 話を戻そう。美濃部達吉は『憲法講話』で、「君主が統治権の主体であるとするのは却て我が国体に反し吾々の団体的自覚に反するの結果となる」と言い、「統治権が全国家の共同目的の為に存するもので、租税を課するのも、軍備を起すのも、外国と戦争をするのも、領土を拡張するのも、常に全国家の利益を計り国利民福を達するが為にするものであつて、単に君主御一身の利益の為にするものではないことは、更に争いを容れない所であります。国家が統治権の主体であつて、君主は国家の機関であるといふのは、唯此の思想を言ひ表はしたものに過ぎぬのであつて、我々の尊王心は毫も之に依つて傷つけられないのみならず、却て益々発揮せらるゝ」という(「憲法 美濃部達吉と上杉愼吉」河野有理編『近代日本政治思想史』243頁からの孫引き)。統治権が「全国家の共同目的の為」にあるということには天皇主権説論者も異論はなかろう。むしろ違和感を呼び起こすのは、天皇主権だと天皇は国家の利益ではなく、自らの利益の為に統治権を濫用しかねないと考える美濃部の皇室観のほうであろう。そこまで言っていないと美濃部は言うに違いない。だがどう読んでもそういう発想があるからこの論理展開になるようにしか読めないのである。したがって、天皇機関説論争は不敬か否かといった学理以外の部分での論争が多くなったのだが、美濃部はそれが自らの思想が呼び起こしたものであることにどれくらい自覚的だったのだろうか。
 美濃部を巡る学術論争が政治闘争に転化していった理由は他にもある。いい加減な本によっては、美濃部は学究の徒であったのに、その学説を問題視した主権論者が誹謗中傷したかのように書いてある場合もあるが、これは全く正しくない歴史理解である。美濃部は山県有朋に重用された一木喜徳郎の弟子であり、美濃部も山県閥の支援を受けていた。また、男爵である菊池大麓の娘を嫁にもらい、そうした人脈により貴族院議員にも選ばれていた。そして、長州閥の影響もある、立憲民政党のブレーンでもあった。南北朝正閏論争もそうだと言われているが、天皇機関説論争も、「長州閥対それ以外」という権力闘争の様相を秘めていたのである。
 天皇観の話に戻ろう。国家、歴史、文化、信仰あるいは国民全体を代表する存在こそが天皇であって、それを機関説のように私的利害を満たすために国政の濫用を図りかねないと考えることは、天皇観の未熟さと映ったに違いないのである。むしろ政権実務者に過度な権威、権限を与えてしまうことのほうが、実務者が私的利害を満たすために国政の濫用を図りかねないと考えるのが主権説の立場であった。そのことは穂積八束が三権分立を徹底しようとしたことなど、これまでの主権説論者の思想を見ていけば容易に連想されることであろう。
 蓑田胸喜は「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」という。天照大御神も八百万の神の意向を確認し、孝徳天皇は臣下と共に治めたいと欲せられ、明治維新の際には万機公論に決すとされた。独裁は天皇みずから取られなかっただけではなく、国家機関(=政府)にも許さなかったことを強調した(「天皇親政と輔弼機関の分化重層」『蓑田胸喜全集』第六巻964~966頁)。蓑田は決して議会が存在することを否定していない。議会が政党に私物化され浅はかな民意が大手を振うことに嫌悪感を示したのである。しつこく語るように天皇親政論は天皇独裁論ではない。

 天皇のいわゆる「人間宣言」は、GHQが草案を書いて昭和天皇のお言葉として公表させたというのはもはや常識の類で、GHQ草案に昭和天皇は五箇条の御誓文を足したことも有名である。これを元に天皇の「人間宣言」はデモクラシーの精神はアメリカに教わったものではなく明治以来の日本の考えだったのだ、ということを示したという解釈も後を絶たない。だが、戦前戦中には「民主」という言葉は禁句であった。このような解釈は私には説得力があるようには響かない。私には、いわゆる人間宣言は「天皇主権」を宣言した声明に思えてならないのである。一言でいえば、「これからは引き続き五箇条の御誓文の精神にのっとって政治を行います」と、昭和天皇が国家の大方針を宣言したと受け取れるからである。国家の大方針を決める権限は、引き続き天皇にあると内外に示したのである。

 徳富蘇峰は終戦後の日記、『頑蘇夢物語』で、「国体の擁護が出来た」とか「皇室の尊厳が保たれた」などという論者がいるのは「驚き入る次第」であり、「実際の主権は、マッカーサーに在りといわねばならぬ」という(『徳富蘇峰終戦後日記―頑蘇夢物語―』第一巻35頁)。もちろん蘇峰はこれをGHQに媚びる意図で述べたわけではなく、世を嘆く言葉として述べたのである。
 そんな心情の中で蘇峰は「皇室中心主義」を述べる。これは今後日本が皇室中心主義で行くべき、という議論ではない。今までも皇室中心主義であったという確認でしかない。しかしその「確認」はとても重要であると思われる。
 蘇峰は、日本に皇統が連綿と存在しているのは摂関政治や幕府や議会があったからであり、実際の政治から遠ざかったことが皇室が長年続いた要因なのだという議論と、国家の万機を治め、雲の上に仰ぎ奉ることの両方を批判する。皇室中心は君徳の実践にあるのであって、場合によっては君を諌めることも必要だと述べる(同86~90頁)。蘇峰は元田永孚の名前も出しているが、要はあくまでも全権は主上にあるが、政策決定にあたっては君臣との関係の中で判断され、場合によっては臣下が君をお諌め申し上げることも憚るべきではない、というものであろう。

 「すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、想像力のない合理主義の産物である。社会の基盤は契約ではなく期待である。社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である」(三木清『人生論ノート』新潮文庫版92頁)。
 西洋のもつ「契約」の観念には、どこか空想的な部分が付きまとう。対して、人間が抱く素朴な感情に還っていくことは、社会という「魔術的な拘束力」に期待するということであろう。天皇は万物共生の体現者でもあり、日本社会が持つ「魔術的な拘束力」を示す存在でもある。欧州の王室は美男美女のプリンスで、明らかに「セレブ」であることを社会的吸引力としているが、皇室はそうではない。皇室は日本人の信仰に依って立っている。
 政治的な部分に限定してみると、皇室は政局的に中立な存在であるだろうが、それが政治判断を求められる存在でないかどうかはわからない。というより、天皇は日本社会の「魔術的な拘束力」の上に立つ存在であるがゆえに、その行動が自然に政治的意味合いを帯びるのである。たとえば、東日本大震災の際に陛下がビデオメッセージや被災者支援に注力された。それは真に被災者を慮ってのことだが、結果的に政権与党民主党のお粗末な対応が浮き彫りになり、民主党の政治生命は終わったと言ってよい。天皇陛下のお言葉はなぜそのような重き意味合いを持つのだろうか。それは、今においても天皇と言う存在が決して立憲君主というだけの存在ではないことを示すのではないか。

 里見岸雄は天皇主権説と天皇機関説が、ともに統治権や所有権を前提に国体を理解していると批判する。天皇の一視同仁、一君万民の意思は社会に根差すがゆえに憲法を凌駕したものとして捉えられた。私流に言えば、憲法は政府を縛るものであって、天皇の立憲君主たる側面は天皇という存在のごく一部でしかないということではないだろうか。それに対して憲法の条文を盾に統治権だの所有権だのを言い争っていることが、国体を成文憲法だけでしか理解しようとしていない証ではないか、ということではないか。
 晩年の上杉愼吉は、無政府主義者クロポトキンにまで関心を持ち、実力による奪い合いではなく、相互扶助や互恵による連帯に社会性を見出していた(『甦る上杉愼吉』144頁)。近代の所有権にがんじがらめになった世界観を否定したとき、相互扶助的な素朴な共同体を愛する思想が生まれる。畏るべきは、そこにおいても天皇は日本人の素朴な共同感情の証となりうることである。この時天皇と言う存在は、天皇機関説に該当する存在ではないところか、立憲君主や天皇親政にすらそぐわない何かである。このときの天皇は経済的合理性はおろか近代国家の範囲外にいる。権藤成卿は政府をプロシア的だと批判し、社稷に基づく国家体制を模索したが、そこにおいても皇室は「綺麗なもの」として中心にあり続けている。三島由紀夫は「文化としての天皇」として、天皇を文化の源流であり根拠であるとみなし、古来の祭祀的政治と結びつけた。それは近代的合理主義と結びついた天皇を磯部浅一の言葉を借りて「何という御失政」「何というザマ」だと罵り、「神々の御いかりにふれますぞ」と叱る側面すら持っていた。天皇とは、あまりに重層的な存在であり、それを重んじる人間の思想もまた、重層的側面を持たざるを得ない。ところで権藤や三島は、天皇が立憲君主的存在でありながらも立憲君主という概念だけではくくれない概念をも平然と兼ねていることをどう説明するのだろうか。「文化としての天皇」であるべきという議論は、むしろ今までの天皇を過度に「立憲君主」という存在だけに貶めている響きすら感じる。むしろ天皇は時には立憲君主であり、時には古代祭祀王であることを平然と兼ねる畏るべき存在であることを想うべきではないだろうか。

 戦後保守は、天皇は現実政治から超然としているべきだし、それこそが天皇が長年続いた所以なのだと強調する。だがそれは天皇という存在に潜む重層性をまるで見ていない。天皇が血縁によってのみ存立すると考えるのと同様に底の浅い議論である。たしかに天皇の後継は血縁によって決定されるが、天皇の正統性は血縁だけではなく、日本の歴史、文化、信仰、倫理、さまざまなものによって補強されている。天皇は憲法に拘束される存在でありながら、憲法にだけ拘束される存在ではない。天皇は主権者でありながら立憲君主であり、祭祀王である。それを支離滅裂にさせないのは、峻厳な倫理に支えられるだけではなく、何か社会が持つ「魔術的な拘束力」を体現する存在だからではないだろうか。「魔術的な拘束力」というと何かおどろおどろしいものを感じられる方もいるかもしれない。だが社会的に団結意識をもたらし、自他を区別する「何か」である。同じ社会を構成する仲間であり、先人と感情的につながっている、という期待のことである。

 最後に念のために言わせていただきたいことがある。正直私は本稿で何かを言い得たとは思っていない。また、私自身が天皇と言う存在を語りつくせたなどとは到底思っていない。ただ、既存の天皇論はどこか片手落ちな部分があり、何か説明しきれていないような違和感をぬぐえないという思いのもと書いたが、本稿も結局片手落ちで違和感があるものにしかならなかったことは承知しているが、ご寛恕いただきたい次第である。

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