人ある所に人なし、人なき所に人ありという。人が多くいる場所には大人物は出ず、人がいない場所にこそ大人物は出るという意味だ。義理と人情がごく自然に出るような場所で育つのは、人が少ないところだ。都市は人が多すぎるため、あまりに機械的に設計され、人の心が発揮できない場所になっている。秩序には人の心を自然に発揮させることを妨げることがある。
思想の左右など、たまたま偶然のきっかけで別れたものに過ぎないのかもしれない。社会の善を考えざるを得ない人間にとって、右翼や左翼の差は大きな問題ではない。政府や世間が織りなす秩序は、彼らにとって、時に味方であり、時に敵である。右も左も変わらず、デモの主催者が嫌うのは問題を起して警察ににらまれることだ。それゆえ日本のデモは(ここで日本に限定しているのは海外の事情を私がよく知らないためで、それ以上の理由はない)とてもおとなしくて整然としている。警官に守られて整然と更新して、終わった後はお疲れ様でしたなんてやっている場合がほとんどである。このとき主催者はほとんど警察の代弁者にしかなっていない。問題を起さず、デモをただのガス抜きにしようとする側と一体となるのである。もちろん、デモに限らず政治運動は大方そういう具合になっている。それをダメだと言ったらおそらく何の運動もできなくなるだろう。だがそれでもそこに何らかの欺瞞性を感じないわけにはいかないのである。
現代の日本はおそらく物質的には史上最も満たされている時代であろう。にもかかわらず、あるいはだからこそ、何か薄皮をまとった閉塞感が人々の心を覆ってやまない。右肩上がりの時代は終わりを告げ、成熟へと歩き始めた日本社会だが、歩き始めてふと、成熟とは何かまるで分らないことに初めて気づいたような、そんな心境であろう。そして何より、今の日本社会を回している「秩序」は、右肩上がりの時代に作り上げられたものだ。果たしてこの秩序というものを追究せずして、日本は未来に歩みを進めることができるだろうか。秩序のもつ便利さと恐ろしさを、もう一度見直す必要があるのではないだろうか。右肩上がりの時代に作られた秩序は、今のままでよいのであろうか。
いきなり結論から言おう。秩序には官僚的な、人をがんじがらめにしてしまう働きがある。人々が元来持っている共同性すら発揮できないように無機質な制度に落とし込む怖さを持っている。人々の共同性がそのまま生かせる社会。その原点に立ち返らなければならない。
法家は儒家の述べる徳治を「人による支配」であり、恣意的な政治であると批判したが、儒家もまた儒教道徳という絶対の規範の前では為政者たりとも従うことを求められるという意味で、「人による支配」を避けようとする思想であった。為政者が自らに有利なように法を作り、それへの服従を強いる「秩序」を、儒家は怖れた。
組織は必ず何らかの思想もしくはイデオロギーを持っている。それはとても強固なもので、組織の構成員一人ではなかなか変えることが許されないものだ。組織の理屈はその理屈を維持するためだけに人を振り回し、押しつぶしていく。
組織と秩序は密接な関係を持つ。組織の長は秩序を好む。それは自らに都合のよい形での「秩序」である。組織はその構成員に対して、どこか恩着せがましいところがある。就職させてやったのだから、そして給料を払ってやっているのだから、少々の転勤や残業にも文句は言うなというわけである。働かせてもらっている喜びをかみしめろというわけである。この巨大で無神経で不遜な組織の力は、どんな小さな組織にもある。そして時に組織は、こうした圧力を喜んで受け入れる人間になれと、人の心にまで踏み込むことがある。この横暴こそ、組織が求める秩序である。
こうした圧力が日常的にある社会では、「気晴らし」をほしがるのかもしれない。社会にはびこる「レジャー」志向がそれである。「レジャー」は一種の散財である。日々さんざんこき使われた鬱憤を、散在して憂さ晴らししてくださいというわけである。だがそれが広告や観光産業と結びついた今日、その「レジャー」にすら飽いた白々しい感覚もまた社会に広がってきたように思う。「若者のクルマ離れ」「インドア志向」などというのはその一つの表れである。「若者」と言っているが、実は若者だけの現象ではない。
企業組織の横暴の中で、心までも踏み荒らされた日常は、カネによってしか癒されない。働くのはカネのためである。そんな不健全な感情は、仕事では社会貢献はできないという絶望感と表裏一体のものである。組織に巣食う人間は、必ず面従腹背を覚える。なぜ面従腹背が行われるのか。それは組織が「喜んで」働くよう、心まで支配したがるからだ。人に過度な服従を強いる強権的な秩序は、面従腹背を育てる温床となる。管理と面従腹背は二つで一つだ。管理すればするほど、面従腹背が広がっていく。
日本共産党は、平等を謳いながら、実際は東大卒のインテリ党幹部がすべてを決定する仕組みである。それが共産党の「組織の論理」なのだ。日本共産党に限らず、共産主義国家は、要は共産党がすべてを支配する、党幹部とそれ以外という階級体制を樹立するものである。
マルクスの思想とマルクス主義は異なる。マルクスの思想は体系化されたものではない。体系化されたマルクス主義はマルクスの思想とは違う何かである。それを取りまとめたのはエンゲルスであった。マルクス自身が「私はマルクス主義者ではない」といったように、マルクス主義というイデオロギーは「マルクスの思想ではない何か」であろう。マルクスの思想はエンゲルスが取りまとめたが、マルクス主義はエンゲルスの手すら離れて世間に横行することになった。マルクス主義はマルクスの主義ではないが、エンゲルスの主義でもない。イデオロギーは広まる過程で得体のしれない「何か」に変わっていくのだ。イデオロギーは単純な図式的な思考である。それは思想とは大きく異なる。イデオロギーは秩序であり、思想は無秩序である。もっとも、思想は図式化されることで初めて広く人に伝わるともいえる。人に伝わるとは、「要するに」どうであるかが宣伝されるということでしかない。それは思想するものにとってはとても悲しい現実だが、ある種の心理であろう。図式化されていない「思想」というものは、師弟関係など深くかかわった人くらいにしか伝わらないものなのだ。思想とイデオロギーはまったく違うものであるが、思想とイデオロギーは区別しようとしてもできないものである。
ソ連という国家は、外面は共産主義を標榜していたが、実質は政府が商売を独占する国家資本主義であった。江戸幕府による鎖国が、国を閉ざすものという世間の印象よりも、むしろ幕府が貿易を独占して行う、という方が正しいのと同様に、ソ連も共産主義という印象よりも政府が商売を独占して行っていたというほうが正しい。ソ連にはハエがいないというのは嘘だったが、労働組合は本当になく、労働者は生産計画のために搾取されていた。
「全体主義」には二つの意味がある。全体のために個を圧殺する全体主義と、全体を構成する各員を全体のために救う全体主義である。ひとりのいのちは国家全体のためのいのちであり、決して軽んじられるべきではない。こうした全体主義もありうるのではないだろうか。しかしこれは、全体主義の二つの側面、裏表の利点と欠点を示したものとも言える。秩序は人を救うが、秩序の名のもとに殺される人がいるのである。
人間は利己的な動物か、それとも共同的な動物であるか。それは果たして二項対立として存在するものなのか。元来世の中のものは誰のものでもない。それを「私有」できると考えることの傲慢を想わざるを得ない。人間の利己性を深く認識するからこそ、その利己性を抑え、共同性を発揮できるよう努める立場もあり得るのではないだろうか。人には公正を望む心があり、義に生き、情に突き動かされる心がある。日常生活の中でそうした場面は、利己的な判断と同様にありふれていると言ってよいだろう。その時、人はあえて利他的な判断をした方が後々良いことがあるだろう、情けは人のためならずなどと功利的な計算をしているわけではない。義や情そのものに突き動かされて行動をしているのである。即ちそれは、営利活動のみ見ていただけでは世の中は語りえないということである。
人は目に見える形で誰かと共同作業をすることばかりではない。にもかかわらず、人間として日々活動していることがすでに社会的存在であることの証明でもある。たとえば言葉が、嗜好が、価値観が、すでに社会的、歴史的存在なのである。即ち「個人」はどこにもいない誰かではなく、必ず国籍、社会、文化を背負った一人として存在する。
ではなぜ、時に秩序が人を圧殺することがあるのだろうか。ワンフォーオール、オールフォーワンと言ったところで、現実は簡単に上司やお偉いさんの都合が、いつの間にか「全体の意志」として服従することを要求されるべき何かとして我々に迫ってくる。そこには共同性の欠片もなければ社会性もない。機械か道具にでもなった気分にさせられる。それに嬉々として従うことが人生の指南書なのだとしたら、即座に破り捨ててしまいたくなる。だが、こうした共同的、社会的関係が服従に置き換えられていくことに絶望し、人生に絶望してしまう前に、それらが弱肉強食に彩られていることに気づくべきであろう。弱肉強食は、弱者に過度な卑屈を強い、強者に過度な自尊を与える。その過程で共同性が見失われ、服従関係に置き換えられているのではないだろうか。弱肉強食は弱者を「人」として見なさない。雇用関係は労働者を「人」ではなく、はさみか机かパソコンのような「備品」に置き換えた。カネを払って使っているのだから、それはモノと同じというわけである。「ワンフォーオール」として求められる「オール」は、本当は誰かの「ワン」でしかないのかもしれない。ならば人に「ワン」の理屈を強要できる立場の人間が幸せなのかと言ったら、そうでもない。と言うより、そんな立場の人は誰もいない。人に「ワン」を強要する人間は、実は誰かの「ワン」の理屈を強要されている。それは顧客だったり、株主だったりする。そうやって連鎖反応のように誰かの要求に振り回され疲弊し、道徳が荒廃していくのである。
マルクス主義が生まれる前から、貧者は街にあふれ、その日暮らしを送っていた。それを義侠心から告発した言論人は、明治時代には思想的立場を超えて存在した。だが、ロシア革命が起こる前後から、人は共産主義を憎み、共産主義者と誤解されることを恐れるあまり、貧しい人々を救うことを主張することを躊躇した。共産主義はかえって貧者の立場を苦しくしたとさえ言えるかもしれない。共産主義国家は貧者の楽園でも何でもなく、ただ「共産党関係者」と「それ以外の人間」という階級を固定する装置にしかならなかった。共産主義は貧者を誰一人救わなかった。だがそれは、共産主義の対立概念である資本主義、あるいはそれによって生まれた格差を何一つ正当化するものではない。
マルクス主義は共産主義国家の崩壊とともに忘れ去られる思想であるかのように思われてきた。だが、資本主義に毒された人々が世の中を売買の関係にすりかえ、自己利益の追求を当然のこととみなしたとき、労働力も完全に「商品」となり、皮肉にもマルクス主義の見立てが裏打ちされることとなった。そうなったとき「プロレタリアートの窮乏化」は現に実質賃金の低下として眼前に広がりつつあるではないか。市場がもたらす秩序はまったく合法的に人を窮乏に追いやる。このことが意味する恐ろしさを改めて確認しておくべきだろう。
ルールを一度曲げると、それが常態化してアノミーに陥る。それを避けるためには、ルールを厳格に守る必要がある。ところがルールを厳格に守りすぎると柔軟な対応ができず、ルールによる保護から零れ落ちる人が出てくることになる。深い信頼関係が醸成されている組織ならば、ルールを柔軟に運用し零れ落ちる人々を救済することができる。組織において、構成員が深い信頼で結ばれることはとても重要なことなのだ。
政府を最高の価値と捉え、国民はその政府に奉仕するだけの存在とみなすような考えを時に公然と披瀝する論客がいる。自民党に寄生する類の自称保守がそれだ。面白いのは、そういう人はたいてい政治の中枢に携わっている人ではない。その周囲に寄生していると言ったら失礼だが、そういう人が礼節も謙譲の美徳もない発言を公然と唱えるときがある。権力は時に自国の文化を破壊したがる時がある。むき出しの権力を誇示したいものにとって、時に文化は足かせになる時があるからだ。企業家や財界も同じで、労働者に対する手当てや当然払われるべきとされている態度を、競争や自己責任の論理のもと放棄させたがるのは、そうなればむき出しの権力がものをいう世界になるからであろう。
人生を決めるのは、ささいな運命のいたずらであることが多い。運は、神という言い方が適切かはわからないが、人智を超えたものから与えられるものだ。それは、俗世の地位や貧富などで差別されることなく、誰にでも訪れる可能性がある。悲運も同じで、この世の栄達を究めた人が病であっという間に亡くなることだってある。人は、運命の前に平等である。共産主義は、こうした神様のいたずらさえも人為的に平均化しようとしかねない危険性があった。と同時に、資本主義者はこうした天運さえも個人の努力と実力と成果に帰属させかねない危険性がある。どちらも人智を超えたものに対して不遜な思想である。幸も不幸も巡りあわせである。天から得た幸運を社会に還元し、天が与えた不運を皆で分かち合う敬虔さを、資本主義も共産主義も欠いている。近代社会が与えた秩序は、こうした人智を超えた働きを忘れさせるものであった。およそこの世に永遠に続くものなどない。資本主義も共産主義と同じく、必ず消滅する日が来る。資本主義は、その裏面である共産主義と共に崩壊するものである。崩壊した後も、人間は残り、文学が残り、歴史が残る。
もちろん、身に起こることすべてを運命だと達観し、あきらめたり加持祈祷に走る態度は論外である。それは幸田露伴が『努力論』で世の成功者は幸運を自分の実力だと思い、失敗者は不運を運命だとあきらめていると述べたことにも通じるものがある。だがその露伴は、自己の幸運を自分のものだけとはせずに、世に幸福をもたらすべく使う「植福」を重んじたことを忘れてはならないのである。
政治家によって語られる政治には、人を支配するための偽りが隠されていることが少なくない。「財政危機であるから増税する」とか、「日本を守るために集団的自衛権を行使できるようにする」等がその類である。これに対して、「日本の「借金」は多く国内によるもので大きな問題はない」であるとか、「集団的自衛権の行使はアメリカの要請によるもので、より対米屈従的外交政策を取らされることになる」と言った論理的反論をしていくことは重要だろう。私もそれを否定しない。だがそれは短期的目線に立つものであり、政治が「まつりごと」になっていない限り、人が人を支配するための道具にしかならないという根本命題を解決するものではない。神々が人を支配するのではなく、人が人を支配する限り、そこには強者による弱者の搾取という側面が付きまとうのである。
政府が持つ権力には魔力がある。権力は人をひきつけてやまない力がある。権力に近いものが甘い汁を吸い、そのつけをその他のものが払うという不条理は、歴史上数知れず繰り返されてきた。それでも権力が露骨に人を支配することを善しとしない思想もまた古くから語り継がれてきた。例えば儒学は信賞必罰をあるべき姿としながらも、寛刑を善しとし、権力が人を拘引するさまを嫌うところがあった。犯罪が起こるのは社会が乱れているからであり、その乱れを正さずして犯罪者を処罰するだけでは事態は何も変わらないと考えた。近代国家における犯罪の処罰は、犯罪行為に対する責任追及が主で、その事態をもたらした根本原因とその改善は人々の叡智に頼っている。たしかに根本原因の治癒は、むやみに制度に組み込まれる必要はないだろう。だが、一人一人が、犯罪者を処罰するだけでは何の解決にもならないことを自覚すべきではないだろうか。
我々は連帯しなければならない。人は一人では生きていけない。だが、その連帯の合言葉の中に、既に抑圧と馴れ合いが潜んでいるのである。連帯を求めながらも、その中で各人が孤立を恐れず主張し、なおかつ周囲もそれを寛容に受け止める。そんな世界は脳内にしかないのかもしれない。
人の純然たる思い。本居宣長はそれを「もののあはれ」と呼んだが、そんな原始的な感情を、社会とか組織というものは簡単に抑圧する。秩序とか道徳という名によって。だがそれは秩序や道徳が要らないということにはならない。なぜならそういったものがなくなればなくなるほどむき出しの権力によって人が人を支配するような世の中が訪れ、人々は却って抑圧されるからである。また、何事にも寛容でありすぎると、却って差別化と排除が盛んになったりもする。まことに人の世は救いようがない。だが、人の純然たる思いの中には、おそらく全体と調和しつつ個の尊厳を害さないものへの希求が含まれているだろう。人はそれを良心とか、良知とか呼んできた。秩序とか道徳という名で実はそういう内容が唱えられたこともあるだろう。社会とは、自分の外側にあるものではない。自分は社会の一部分であると同時に、社会は自分の一部分なのである。なぜなら社会は人々の「期待」の寄せ集めでもあるからだ。そうした人間の「期待」に託すしかないのかもしれない。