はじめに
真の信仰はためらいがちに語られるという。だとすれば、日本という国家、社会、文化、歴史、伝統、言語、といった国粋に対する信頼も、ためらいがちに語られるべきものなのかもしれない。愛国の情が野放図で夜郎自大なものになっていないか、いわゆるヘイトスピーチになっていないか、あるいは単なるある政治勢力の応援団になっていないか、常に自らに問い続けなければなるまい。それは深い国粋への信仰の念があって初めて成立するものである。自らの発言は国粋の殿堂に新たな黄金の釘を打ち込む姿勢でいるかどうか、常に問い続けなければならないからだ。それは、信じるということの貴さでもある。
あるいは信仰の念は神の御業の賜物であって、人間の所業ではないと言われるかもしれない。だが同時に先人からの賜り物である伝統は、人間の自己決定をはるかに超越したところで、一人一人の精神を規定している。その伝統が神の御業であるか人間の所業であるかを厳しく峻別する態度は、人間存在の実態に即していないようにも思われる。
現代日本において、信じる力というのが絶望的に落ち込んでしまっている。たとえばアメリカでは格差社会と言われながらも教会が福祉に積極的であるし、耶蘇教的信仰の伝統から、民間でもNPOが発達していると言われる。格差の割には飢える人は少ないとも言われる。
翻って我が国では、社会福祉の不足に対する怒りが、社会の仕組みを変えようというほうに向かわず、「あいつがタダ乗りしている」と、弱者が弱者を叩くような風潮すらある。嫉妬を原動力として、全体が幸福になるよりも、隣人の優位を告発して、それを引き摺り下ろすことにご執心なのである。「悪平等」とは、元来こういう言説に対し向けられるべきものではないだろうか。この「悪平等」は、他人を全く信用しないことを原動力として広がっていく。日本社会は、意外にも他人を信用しない社会なのだ。
「信用」。かけがえのないものだ。だが、目には見えず、計れもしない。こうした抽象的概念の効能について語ることは、どこか避けられがちになっていたのではないか。だからだろうか。他者を信用できないということが近代のあらゆる問題の根幹にあるような気がする。特に資本主義が当然のように受け入れられている現代社会においては、カネの暴力がまかり通り、カネにたかる蟻ばかりの世の中となってしまった。そうしないと生きられないのだから大なり小なりそうなるのは仕方ない。だが本当にどうしようもない世の中になったと、思わず嘆き節になってしまう。
資本主義は、資本が自己増殖するために共同体の内側になるものを分断し、金銭的価値に置き換え、商品に仕立て上げ、売買されていくことを積極的に肯定する思想である。その商品一覧には人間の「労働力」も含まれる。新自由主義と言われる資本の論理を特に徹底した思想では、もはや人々は人間ですらなく、企業になぞらえられる。売り上げが経たない企業が倒産するのは仕方がない、というのと同じ論理で、人間が生活できなくても仕方ない、と資本の論理のほうを守るのである。人間は自己の労働力を商品として売りさばく企業としての生き様を強制されるのである。そこに格差が生まれようとも、それは当然のこととして見過ごされるのである。
「持てる者」と「持たざる者」の格差は歴然としている。あるいは「1%」と「99%」と言い換えてもよい。「持てる者」、すなわち「1%」とは自分自身を商品にしなくて済む者のことである。「持てる者」、「1%」は資本の力で「持たざる者」、「99%」を搾取する。搾取されることによって、人々が共同体として自明のようにその恩恵に浴していた温かい関係性さえも分断されてしまう。その構図は厳然としてあり、今後もそう簡単にはなくなることはないだろう。人々はその搾取の構造を時に恨み、時に利用しながらしたたかに生きている。努力は報われず、権力者は往々にして邪な動機でその権力を使いがちだ。しかしそこに屈しない態度が求められる。それは単純な反発に限らない。その中で利己主義にとらわれすぎず、したたかに生きることもまた立派な抵抗の形である。
世界史において「持てる者」と「持たざる者」の格差が解消されたことなど一度としてなかった。皮肉にもこの格差が一時的に縮まったのは、資本主義的概念が導入された上で資産課税が強化された一時期だけであった。その頃に限定すれば、トリクルダウンの効果は確かにあったと言わなければならない。だがそれも、一時的な現象に過ぎなかった。資本の自己増殖の動きは、それを妨げる資産課税を忌み嫌うからである。
そのような資本、あるいは「持てる者」、「1%」による搾取を妨げるものの一つに、信仰がある。信仰とは特定の宗教を信じることとは限らない。私的利害関係や目に見えるものを超える「何か」を強く信じる行為のことである。信仰は共同体によってもたらされ、利他を称える傾向にある。極論を言えば、信仰とはこの「何か」を信じることに他ならない。
日本人の信仰とは、日本の伝統の上に咲く花である。日本の伝統にのっとってこそ力強い花が咲くのである。
多くの現代日本人にとっては、「信仰」という言葉より「宗教」という言葉のほうが耳慣れた言葉であろう。しかし本稿は宗教というよりも日本人が何を信じ自己の倫理意識もしくは社会をとらえていたのか、というところが主眼になる。したがって「武士道」だとか「社会主義」なども絡めて論じる予定である。「日本人は何を信じていたのか」、それはまったく答えの出ない問いである。だがその時々で、日本人は利害関係だけにとらわれない「何か」への信頼を語っていたのであり、先人の知的営みの恩恵に浴するものの一人として、その「何か」を追究しようとすることには関心を持たずにはいれない。精神は「伝統」という故郷を持っている。「何か」への信頼とは、すなわち伝統への信仰であろう。
ただし本稿がその「何か」の究明にどれだけ寄与できたかどうかはわからない。ただ先人の思索を羅列しただけになっていないか不安でならない。本稿に望まれることは、むろん日本人としての「伝統」への信仰の告白である。だが、私はそんなに熱心な「信心」を持つ人間だろうか。あるいは語るに足る人間だろうか。疑問は尽きないが、ひとまず読者の思索の一助となれば幸いである。
本稿では仏教の話をしたり、神道の話をしたりするだろう。自由に様々な信仰を行き来すること自体が、信仰を失ってしまった近代人の態度だとも言える。どの面下げて「信仰」を語るのか、とお叱りを受けるかもしれない。だが、おそらく真の信仰とは、教団や教義に囚われるものではなく、それを超えた天の声を聞き続けることにあるように思う。だから、及ばずながら「天の声」を聴く営みに参与したい。それは人々の悲願に近しいものだと思う。己がこの世に存在していること自体を怪しみ、自分がこの世に生まれ落ちた意味をいぶかしみ、はるか昔からなされてきた人類の言葉を聞く営みに加わろうという態度である。
例のごとく本稿には様々な立場、思想の人物が登場する。私と意見が異なる人物も、または引用した人物同士がお互いを批判しあっている場合もある。そうした関係性を無視して再編成することによって本稿は成り立っている。いささか鷹揚な態度ではあるが、様々な人物の考えが私の中に流れ込み、相互に影響を与えたうえで本稿が成り立っているということでご寛恕いただけたら幸いである。引用文献の出典は随時註をつけている。
(続く)