伝統と信仰 序章 信仰と宗教


序章  信仰と宗教

 人は、死ぬことができない。死を経験できない、と言ったほうがわかりやすいだろうか。非業の最期を遂げた志士も、名文を書き残した先人も、皆、死を経験していない。にもかかわらず、「死」はとても饒舌に語られる。現代は特に、死を遠ざけてきたにもかかわらず、あまたの抽象的な「死」が語られてきた時代である。信仰と死者の問題は切り離して考えることはできない。まだ経験すらしていない死を語るよりも、死者の声に耳を傾けることから「信仰」ははじまる。

 「信仰」というとき、いわゆる既存の宗教だけを指しているわけではない。「信念」とか、「人智ではかりがたいものへの敬意」とか、そういう言葉に言い換えられるような形での「信仰」である。
 何かを強く信じることを説くのは、自由、平等、資本主義、民主主義といった近代原理の普遍を信じないからである。近代思想の「普遍」の圧力に抗すのは、信仰の力以外にはないからだ。信仰は世間の無道な圧力からも自分を守る力となる。世間体に囚われず、真に自分を見つめ、自己を突出させていくのは信仰の力である。信仰にはそのようなことが期待されている。自分が経験したこと、あるいは自分が心から納得したことしか信じない、という態度は頑固であるがとても大事なことである。それは他者や過去、未来を無視することではない。私の精神はどこかで過去とつながっている、そして未来へ続いている。自分の心に関心を持てば、必然的に過去や未来につながっていくことができる。
 すべては自分の心が感じることによって生まれる。今目の前に自分の書いた文章があるのは自分の心がその存在を認めたから「ある」のである。「ある」とは自分の心がそれを認知したということであり、「ない」とは自分の心がそれを無視したということである。

 宗教はいかに信仰心を涵養してきたのだろうか。
 耶蘇教徒にとって教会は、人為的ながら一つの共同体であり、家族と地域の間に位置するものである。私は耶蘇教があまり好きではないが、こうした地域、家庭に根付いた信仰というのが現代日本では耶蘇以外ほとんど消え失せてしまっているのが悲しい。合理主義は人間をバラバラの個にして救わない。
 寺院や神社、教会は人為的な共同体なのである。神仏への感謝をささげた後は、みなで持ち寄った弁当などを食べるような和気あいあいとした小共同体の場である。いまや我が国では、寺院や神社は官僚的事務的な感さえするが、元来の宗教の目的とは共同体の形成であり、そのきっかけを作ることであった。西洋の保守主義者が耶蘇教徒というより教会に重きを置くのはそこにあると言える。
 ただ、歴史を見ると、こうした宗教教団が人々の信仰心に悖る行為も行ってきたとも言えるだろう。それは大方教団の側が商売に走るか、権力と癒着することによって起こる。世俗的価値を超えた「価値」を提示することが宗教家の務めであるのに、露骨に世俗と結びついてしまえば堕落するのは当然である。世俗と結びついた教団に、美はない。
 人間という存在と真理とを結びつける存在が宗教者であった。ところが教団的堕落はその信仰を死んだものにしてしまった。その他にも信仰を殺してしまったものがある。近代科学である。科学は信仰や芸術、文学、歴史を、人間存在そのものから単なる研究対象に引きずり落とした。その結果これらは単なる過去の遺物としてしか扱われなくなってしまった。理解や理屈の前に、最も素朴な人間存在そのものがあり、これこそが最も大事なものであることを、研究者は悟ることができなかった。
 あらゆる思想、信仰は自己完結すべきものではなく、生活と常識の中に降りて来なければならない。論理的正しさだけでなく、その論理を支える感性の基盤に挑むことになる。

 人生は苦しみの連続である。自殺するか生きるかは、一息に死ぬか、真綿で首を絞められて死ぬのかの違いに過ぎないと、悲観的になる日もある。だが、真綿で首を絞められる人生の中でも、ふと人間の温かさや、先人の残した珠玉の一節に触れることで、まだ生きていけると思うことができる。そんな心の動きが、美であり信仰ではないだろうか。
 悲願とは、もともとは仏があまねく人々を慈悲の心で包む祈りの言葉である。「優しい」とは「人を憂うる」と書くが、人の生きる苦しみを慮る心が優しさなのだろう。人のつらさをいたわることは、さりげなく、ためらいがちに語られることだろう。優しさは信仰につながっている。

 衣食足りて礼節を知る、と言う。その通りだと思う。食うにも困っている人に礼節を説く無意味さを感じないわけにはいかないだろう。だが、同時に、衣食があっても礼節なき生活というものの虚しさを指摘しないわけにはいかないのだ。特に飽食の現代において、「いかに生きるか」を問わないわけにはいかない。「いかに生きるか」を問うたときに、信仰の問題が現れることは言うまでもない。

 死の恐怖の克服を想わない思想は偽物である。あるいは、世俗に魂を売った思想である。思想とは美のことであり、敬虔な信仰のことだ。人の魂は、そんな小さなこころの動きに触れたときに鼓舞される。美や信仰は、伝統と密接に結びついている。なぜならそれは、価値観そのものだからだ。文化から離れた価値観など、人間のつまらない生物的な反応に過ぎない。つまり、価値観とは伝統に他ならないのだ。

(続く)

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