第二章 日本人と神道
原点なき人生は存在しない。同様に、原点なき信仰も存在しない。神道は八百万の神で、経典を持たないことから、教義を喪失した土俗信仰と見られがちである。たしかに神道の教義は見えにくいものであろうし、私のような浅学なものが一言で語れるようなものでもない。その歴史は習合の過程により、語りつくせないほど多様である。ただ、一言だけ言えば、八百万の神とは万物が神であると言った「何でもあり」の信仰ではない。石ころや木が神様なのではない。ものにも神性が宿ることがある、ということを神道は教えるのである。
神道は我が国の土俗信仰だが、確固とした経典、教義を持たないことが特徴である。思いつくままにあげてみれば、神道とは穢れから己もしくは自集団を守る「きよめ」の役割、すぐれた人物を顕彰する役割、そして現世利益(「ご利益」)といったことが特徴として挙げられよう。
その神道と仏教は当初対立した。仏教が初めて輸入されたころ、仏教を重んじる蘇我氏と神道を重んじる物部氏の対立があり、蘇我氏が勝利している。しかし神道が消滅することはなかった。もしくは、蘇我氏が滅ぶきっかけは中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺するからだが、その中臣氏は神道派だった一族である。しかし蘇我氏滅亡後も仏教は存続した。どちらかと言えば政治介入しにくい神道は劣勢であり、仏教が日本社会に定着していく。しかしその仏教に期待されたのが鎮護国家であったことを思うと、むしろ神道的な思考まで仏教が吸収しているようにも思える。国のために祈るという態度は少なくとも釈迦的な原始仏教とは遠い。
俗に本地垂迹説と呼ばれるが、日本の神々が仏教の諸仏の生まれ変わりとして存在していたのだ、という考え方が広まるのも、奈良時代から平安時代にかけてである。神仏は習合していくことで、表面上は仏教優勢の形で進みながら実は神道的考えも仏教を変革していったということになる。歴史的には判別しがたいが、論理的には神仏習合は仏教側から求めたものであるといえるだろう。神道は日本人の土俗信仰としてもうすでにあるものなので、自ら習合を求める必要はないからである。仏が神より優位だという考えが広まったということは、表面上は仏教が優位になってきたとも捉えられるが、そのように自己宣伝しなければ仏教が広まらなかったという実態も伺えるのである。
それが大転換を遂げるのが元寇である。鎌倉時代元の侵略を受け対外的な危機感が高まった上、「神風」により元が敗北したことにより神仏の順位は逆転し、むしろ日本の神々が仏教の形を以て現れたという反本地垂迹説が優勢となる。
これらは教科書的説明だが、仏教もまた国のために祈っていたにも関わらず神道が優勢に転じるのは若干理解に苦しむ。歴史家が言うほど本地垂迹説自体が確固としたものではないのではないか。そんな疑問を禁じ得ない。
平安末から鎌倉時代にかけて世俗の中にも信仰が現れたことは興味深い。そしてやたらと仏教ばかりめだつこの時代だが、本当に仏教ばかりだったのだろうか、ということも見ていきたい。
少し時代が遡るが、菅原道真という人がいた。宇多天皇に重用され一気に政界の中枢に駆け上った当代一の学者である。遣唐使の廃止など我が国にとっても重要な決断を下した人物でもある。その道真は藤原時平の讒言により左遷。不遇な最期を遂げた。その道真の怨霊が朝廷を襲うようになったと言われ、その鎮魂のために今の北野天満宮が建てられた。ここで大事なのは、道真が怨霊になったという全く非仏教的な信仰が堂々とまかり通っていたことと、道真を祀った北野天満宮は「神社」だということである。菅原道真は当時の社会に「天神信仰」をもたらしたとも言われる。このわずか百年ほどのちには(仏教の)末法思想が大流行し、浄土教が誕生する元になるとは思えないほどだ。
もしくはこんな例もあげられるかもしれない。平清盛は自身も出家した人間であり、「入道相国」とも呼ばれた(「入道」とは出家した人物のこと、「相国」とは今でいう総理大臣のこと)人物だが、その清盛が大輪田泊(現神戸)に建てたのは厳島「神社」であった。神道が現世利益的であったというのは説明になっていない。なぜなら当時仏教もすでに現世利益を与えるものになりつつあったからである。
これらのようなことは西洋的感覚から見ると奇怪に映ることだろう。現在においてもクリスマスを祝い、その一週間後には寺院の除夜の鐘を聞きつつ神社に初詣に向かう…ということを平然とやっているのが日本人なのだ。これらを踏まえて日本人は宗教的に節操がないとか、無神経だとか、無宗教だとか言われたりする。だがそれは間違っているのではないか。たしかに特定の教会(神社、寺)に通っていない、という意味では日本人の多くが「無宗教」だろう。だがそれは日本人の信仰心の篤さとは無関係なのである。むしろ異なった出自の宗教をも混交していっしょくたにまとめてしまい、「神々」としてそれぞれに居場所を与え大事にすることが日本人の信仰心ではないだろうか。こうした混交性は東洋の特徴であるが、特に日本においてそれが強いように思われる。それを可能にしたのは「八百万の神」の神道の力だ。学校の教科書的にはこの時代において神道の影響が触れられることはまずないと言ってよい。しかし神道は確実に息づいている。
ちなみにこの平安末から鎌倉時代にかけては、言わば「日本流」が確立された時期でもある。この頃の寺院建築は大陸から陳和卿のような技術者を招きながらも、重源などが和漢混交の寺院建築として企画提供したのである。それを可能にするのは大陸文化を理解し、それを変換し、独創するだけの文化の成熟度である。重源の企画提供した東大寺大仏殿、もしくは南大門は現在にも通ずる「日本流」の典型例である。
古くは法隆寺の建築も、正倉院の御物も、大陸風のようでいて、実は日本の技術によって昇華されたものである。これらを簡単に「大陸文明の模倣」と捉えるのは誤りである。
平安末期から鎌倉時代にかけて隠遁的な文学が書かれた。それらは仏教の信仰を下敷きとしながら日本で現れた既存の信仰が習合される形をとったと言ってよい。
平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出しで知られるように平家の興亡を仏教的無常観で彩りつつ描いたものだ。そのときの「仏教」観とは釈迦の原始仏教というよりもむしろ道教的な感覚であった。軍記物語特有の勇壮さとともにこうした無常観が共存して描かれるのは、世界の文学と比較すると珍しく興味深い。室町期に描かれた太平記も同様である。
人物でいえば西行が興味深い。西行はもと北面の武士であったが、友の死に無常を感じ突然出家、以後和歌の道を歩んだとされる。歌人としても大成した西行は後世に多くの影響を与えた。西行は僧侶でありながら世俗との関係は完全に断ち切ったわけではなく、そこに信仰の鷹揚さがうかがえる。
隠遁文学に仏教、もしくは道教の影を感じると書いたが、有名な隠遁文学である鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』は、ともに作者が神道の家柄に生まれた人物であった。しかも神道の家に生まれながら個人的に仏教の出家も行っている、という点で両者は共通している。神道でありながら同時に仏教でもある。そうした宗派をかねあうこともざらであった。
隠遁文学は仏教的、道教的感覚を下敷きとしながら神道的な信仰への鷹揚さも背景として誕生した。それらが後世に至るまで長く高評価を受け続けたのはそれがきわめて日本人の感覚とあった形で生み出されたからであろう。
おさらいすると、神道は我が国の土俗的民俗信仰であり、沖縄やアイヌにも似たようなものがあることから地域毎でそれぞれの発展を遂げたにせよ日本列島共通の信仰と言える。
その神道は飛鳥時代に蘇我馬子と物部守屋の争いに敗れた形で以後日本人の底流となって流れ、表には見えにくい形が続いた。
平安時代には本地垂迹説というのが唱えられ、神道の神々は仏教の諸仏が形を変えたものとして理解され、ともすれば仏教優位として理解されることがあった。
しかし一方で真言宗や天台宗の一部と神道は習合し、日本での教域を一気に拡大することに成功したともいえる。平安時代に真言宗と神道の集合により生まれた両部神道は教勢を拡大させた。また「権現」というような仏教と神道の習合の過程で生まれた新たな神(仏)も登場している。
室町時代には吉田兼倶により唯一神道(吉田神道)が唱えられた。唯一神道は反本地垂迹説を背景に古事記、日本初期などに重きを置くのも特徴としながら発達した神道の一流派である。この唯一神道は神道に仏、儒、陰陽道なども習合させたその後の神道を形作るものである。神仏習合でありながら、アマテラスによって諸神を統合しようとする意図も持っており、道徳的なものいいともなじみやすく江戸時代までよく参照された。
江戸時代には山崎闇斎の垂加神道、吉川惟足の吉川神道、本居宣長・平田篤胤の復古神道などが登場する。これらは江戸時代教養の必須条件となっていた朱子学の影響を受けたものである。もちろんその影響とは反発も含む。一方で本居宣長は、浄土宗の信者であり、後の廃仏毀釈の時代のように峻厳たる各教の区別を求める態度とは少し異なる面がある。
廃仏毀釈は「復古」の名に於いてなされたが、伝統的信仰生活を破壊する側面も持っていたことは間違いない。国家神道も同様に、明治国家の成立に必要な面もあったが、神道の信仰を官僚化させてしまった弊はぬぐえない。山本七平『「空気」の研究』によれば、明治四年までは宮中にも仏壇があり、仏式で法事が行われていたというが、この廃仏毀釈の時代に改められたという(山本七平ライブラリー①、73頁)。
「日本人は宗教的に寛容」であるという俗説があるが、こうした廃仏毀釈の例に限らず、全く当たっていない俗説であろう。山本七平は日本人の「空気」に対して硬直的な信仰態度を見た。確かに宗教戦争などは少ない部類かも知れないが、それは「信仰を軽視した民族」ということではない。
明治時代はその維新当初は国学者などに導かれ神道の国教化に進もうとしたがそれに挫折すると、むしろ「神道は信仰ではなく国民儀礼である」という論法により神道式の国家儀礼を説明した。井上毅や陸羯南などもそうした論者に含まれる。それが神道の定着とともに世俗化をまぬがれなくする。国家神道は神社にとって喜ばしいことばかりではなかった。もともと「神道は宗教ではない」という論理により国民儀礼化したのだから神道の教義の簡略化もあり、また神社の統廃合の政府による決定などで小さな神社がつぶされることもあった。実際問題、国家儀礼として必要とされた部分に神道的要素のものがあったが、それを公に認めてしまうと政府が一つの宗派に肩入れしてしまうことになってしまうためできない側面があった。そこで生まれたのが神道非宗教論であった。アメリカやイギリスにおけるキリスト教と国家儀礼との関係と似たように、日本もその歴史から神道と国家儀礼の微妙な関係を抱え込むことになったと言える。その関係は、現代においても変わることなく続いている。
以上で平安から明治期までの神道の歴史をざっと眺めたわけだが、神道はむしろ各宗と習合し影響を与える歴史を歩み、神道が神道自身として教団的なものを持つのは室町時代以降になると言えるのではないだろうか。教義の見えにくい神道が他宗のような教えを確立するのもこのころと言ってよい。無論それらは前時代の積み重ねがあって初めて成立するものであり、この時代の新造物でもなければ人工的なものでもない。時代によって様々な考え方があり複雑な歴史をたどったが、神道が日本人の精神生活の原点として大きな影響を持つことは疑いないだろう。
(続く)