伝統と信仰 第三章 伝統と仏教、儒教


第三章 伝統と仏教、儒教

 戦前と戦後を大きく隔てるものに信仰がある。戦前の、少なくとも著名人は何らかの宗教を信じ、信仰を持っていた場合が多いが、戦後になるとそれが様変わりする。大いなるものへの敬意を失い自己利益の主張ばかりが目に付くようになる。際限なき欲望とぎらぎらした競争意欲の世の中である。老荘はそうした世の中を嫌って隠遁に流れる風があった。儒教は小欲を世の中全体が良くなる大欲で克服せんとした。

 老荘は仏教に大きな影響を与えた。仏教と儒教は日本世界においても大きな影響を与えた信仰である。それらがどう成り立ってきたかを知ることは有意義である。
 仏教の開祖はご存じの通り釈迦である。しかし釈迦の教えは現在日本人が想像しうる仏教の感覚とはずいぶん異なっている。人によっては日本を仏教国とみなさない人間もいるほどである。釈迦は一切を捨て修行により解脱することを目指した。しかし釈迦はそれが正しいと信じたがどのように解脱するかなどはまるで後世に教えることはなかった。これを上座部仏教などと呼んだりもする。最近はあまり使われないが小乗仏教とも言われる。小乗、つまり救われる乗り物には少ししか乗れないことを意味している。
 一方で大乗仏教と呼ばれる流れもある。これは、由来には諸説あるが、人は所詮釈迦のように独力で解脱などできるはずがないというあきらめの境地から誕生したもので、インドの土俗信仰と混交し、釈迦は一切の人々を救うために修行して来たのだ、という考え方も生まれてきた多くの人を救済(大乗)しようとする教えである。この仏教はインドから支那、朝鮮を伝って日本に伝わっていく中で道教の考えと結合していったと考えられている。道教とは老子や荘子などの思想である。日本の仏教に無常観などが漂うのはその影響と思われる。また仏教の宗派によっては加治祈祷的な要素が信仰の中に盛り込まれている場合もあるが、それも道教との混交の中から生まれたものと言ってよかろう。
 一方で儒は孔子がその開祖とされているが、加地伸行のように、儒はもともと東亜世界で信仰されていた土俗信仰が基盤となっていると主張する人もいる。また、特に日本において仏教が葬礼を担う場合、儒仏の混交が見られる。死者の遺影を拝し故人を悼むなどというのは儒にその由来を見つけることはできても、仏教には見つけることができない。
 大づかみに言えば支那世界においては俗事を儒が、非世俗的な抽象理念を仏教が担った。だからだろうか、則天武后の周(武周)や朝鮮では新羅、高麗あたりは比較的仏教を保護したのだが、それでも支那朝鮮両世界における仏教の影響は日本と比べれば随分少ないと言える。
 一方支那では、少し時代を無視すれば、西方で回教や景教、チベット仏教など日本にあまり影響を及ぼさなかった宗教が数多く見られるが、それは主に西方世界にとどまった。

 孔子は伝統と信仰の体現者の一人と言ってよい。孔子がその教えとして最も重んじたのが「仁」であった。
 「仁」とは「人」のことであり、人間らしく生きることである。文学的に言えば、仁とは差し伸べる掌である。人に手を差し伸べるとは、口で言うのはたやすいがそう簡単にできることではない。自己の行動を思い返してみればそれは容易に理解できることであろう。だが、だからこそ「仁」は称えられ、重んじられるのである。儒学は性善説に立っているといわれる。性善説とは「人は皆良い人だ」というお人好し極まる概念ではない。性善説とは「人は皆本来自分が持っているはずの善性を発揮するために自己研鑽しなければならない」ということだ。そこまで踏まえて考えればたしかに儒学は性善説に立っていると言えるだろう。
 余談ながら「性悪説」とは政府による統制や利害関係の衝突・調整により社会は維持されるべきという考えである。儒学には「天下」の概念があり、時に政府の観念さえも相対化されることがある。それに比して、福沢諭吉風に「立国は私なり」と言ったのでは国益の論理は相対化されない。儒学が性善説なのに対し、近代文明、資本主義の観念は性悪説に立つ。ただし性善説と性悪説は先ほどの定義に従うなら両立することも可能だろう。
 余談ついでに、支那を排撃し、儒教を嫌った本居宣長であったが、孔子のことは敬意を持って見ていたようであり、孔子を「よき人」と評している(若松英輔『生きる哲学』80頁)。礼で人を縛ることが儒教だと思われがちではあるが、日常に起こる様々な感情の起伏や大切にし、ありのままの心でいることを重んじたのも孔子であった。だからこそ宣長は孔子を「よき人」と呼んだのであろう。意外にも本居宣長は儒学的な人物である。

 加地伸行は儒教において重要な考えの一つである「孝」を、〈生命の連続の自覚〉であると捉える(『沈黙の宗教―儒教』ちくま学芸文庫版83頁)。祖先から自分に至るまで生命が連続しており、自分の人生とは先人とともに歩んできたのであり、これからも運命を共にするという考えのことである。加地はこの祖先からの生命の連続性の自覚を儒教の宗教性と呼び、仁・義・忠・孝を支える基盤であるとした(同296頁)。
 仁・義・忠・孝といった道徳律は人を縛るために唱えられたのではない。人間は感情の動物であり、生きることの信義はこの感情の中にある。儒学の道徳律はただそれを見つめ、それを称えているのである。本当に自分自身の中から湧き出たものでない思想や行動を他人から強要され、植えつけられることを避けるためのものだ。だが、儒教はそうした堅苦しい道徳を強要するものと受け取られ、あるいは社会的に上層にあるものが下層にあるものに向けて、逆らわせないようにする道具として使われた過去があり、それは儒教にとって大変不幸なことであった。

 白川静は哲人を、「伝統のもつ意味を追究し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う。探究者であり、求道者であることをその本質とする」(『孔子伝』10頁)としたうえで、孔子を「述べて作らず、信じて古を好む」人であったとする。「述べて作らず」とは、天からの言葉を余すことなく記録し、後世に伝えようという精神である。
 孔子は感情の人である。顔回が死ねば大いに泣き、伯牛が不治の病と知れば大いに嘆き、子路が政変で殺され塩漬けにされたと知れば漬物をすべて捨ててしまった。感情とは欲望とは異なる。欲望を昇華させたうえであるがままの心に素直になる。天がもたらした出来事に正面から向き合う心の動きである。「感情」とは、「欲望」よりもむしろ「感性」に近い言葉であろう。

 伝統とは人間的生き方のあらゆる領域に規範としてはたらく。伝統とは言葉を中心として構成される慣習のことだと言える。先人が「神」と呼んだ、人智を超えた「何か」、そして「人間」という存在そのものへの関心を言語化したものが「伝統」なのではないだろうか。
 伝統とは追体験するものだ。振り返った過去のことだ。振り返って追体験したときに各人に内在するものになった時、はじめて生きるものとなる。現代日本において、いわゆる「保守」的な人々が政府権力に癒着しすぎているようにも思える。そうしたところとは少し違う方向で私は考えたいと思っている。あえて言えば、今の日本に必要なのは、政府や自民党に癒着した「保守」ではなく、日本人の精神生活に深く根付いた伝統から出発する国粋主義なのである。もっとも、政府権力なしで社会が維持できると思うのも幻想であり、権力との付き合い方を考えなくてはならないとも考えている。

 少し儒学の話ばかりになってしまったので仏教に戻る。
 大陸から直接伝播された支那朝鮮とは異なり、日本の仏儒の受け取り方は誠に面白い。というのも基本的に日本の儒者というのは長年仏教の僧侶だったからだ。平安時代に儒教を学ぶ学者が設置されたものの基本的には仏儒とも大陸の知識であり、したがって大陸から仏教の経典を持参した僧侶が、併せて儒の考え方も取り入れていたのである。ちなみに儒教と道教の両者が混じった日本独特の陰陽道の考え方が盛んになったのも平安時代であった。
 仏儒とも大陸からの知識であったがゆえに日本では不思議な受容がなされた。というのも支那世界では俗事が儒で非俗事が仏という、全く明確ではないもののある程度の棲み分けがなされていたのだが、日本では両者が棲み分けられず混交していく形で俗事非俗事両方をまかなっていったのだ。
 ちなみに仏教がその形をどんどん変えていったのには戒律の問題が考えられる。戒律は「●●してはならない」というものだがその教えは基本的にその土地の文化に根付いてなければ奇怪なものとして見過ごされるほかない。したがって戒律にはその地域の文化性が色濃く出やすいのである。
 話は戻る。少しわかりやすくするために時系列順に述べていこう。日本に仏儒がほぼ同時期にやってきたが、両者はともに外来思想であり、またそのもたらし手が同一集団であったために明白な区別はされなかった。奈良時代までに日本で盛んだった仏教は法相宗であった。これは戒律により解脱を目指すインド元来のものに近いものであった。たとえば鑑真などが日本に来たのは、正式な戒律を授けるためであった。一方で、日本に限らず法相宗は信仰というより学問的になるきらいがあったようである。だからこそ行基のような私度僧(正式な教壇に属していない僧)にも活躍の余地があったのだともいえる。そんな奈良仏教は政治への介入もあり次第に日本社会では忌避されるようになった。

 かわりに登場したのは密教であった。密教は加治祈祷を信仰形態の一つとする仏教の派である。法相宗の衰えとともに大陸で勃興した密教に日本社会も敏感に反応した。密教のもたらし手は最澄と空海である。密教を充分に学びきれなかった最澄と、当時の密教の正統を受け継いだ空海には帰国後大きな差があった。当然人気が出たのは空海のほうであった。しかし空海により密教の本場は支那からに日本に映ってしまったというのも面白い。なにしろ正統後継者は空海なのだ。密教自体道教との混交が強い考え方である。さらに妖しげな祈祷色を加えたものが山伏や修験道であり、それらはもう少しのちの時代から登場する。
 最澄の話に戻る。最澄の天台宗は密教こそ不十分だったが、その代り密教に特化せずあらゆる仏教の経典、考え方を網羅する施設となっていた。このことは後に鎌倉新仏教の母体となっていくことになる。
 最澄は国家護持仏教論者であった。仏の力で国を守る考え方である。最澄の有名な言葉に「一隅」の句がある。これは後世人それぞれが自分の場所、仕事(=一隅)を守ることで世の中が光り輝くというような発想で受け取られたが最澄の意図は違い、むしろ国家の優秀な役人がそれぞれの場所(=一隅)で働くことで鎮護国家を成し遂げるというものだ。これを見ても最澄が非世俗的な宗教の領域にとどまっていたとは言い難い。むしろこの考え方に儒の影響があるのではないかと疑ってしまうのは私だけだろうか。鎮護国家を成し遂げる以上世俗的な教訓を述べる儒の発想を参照したように聞こえる。大陸でも儒物の混交はあったと書いたが、日本ではそれがよりはっきりとすすんでいるように思われる所以である。
 しかし結果的には平安仏教は奈良仏教のような政治介入は果たせなかった。貴族の側にもそういう要望がなかったに違いなく、だからこそ仏教は政治と距離を置いた。ここでようやく仏教徒は非世俗の領域を担う集団となった。最澄の天台宗や空海の真言宗は奈良時代の南都六宗のように国家によって護持される仏教ではなく、鎮護国家を謳いながらも朝廷から独立したところで力を持てるようになっていた。最澄の延暦寺も、空海の金剛峰寺も、平安京から離れたところにあるのもその象徴である。

 日本は論者によっては仏教国ではないとも言われる。なぜなら日本において釈迦の原始仏教の影響は非常に少ないからだ。むしろ現代日本に色濃く影響を与えているのは鎌倉新仏教である。浄土真宗や日蓮宗、禅宗などがそれに当たる。鎌倉時代は民が豊かな時代だったとも言われる。戦前においても、天皇のもとでの政治から武士による政治への基を作ったとして批判的に描かれることもあったが、山路愛山や権藤成卿などと言った民間史家からは、民が自らの力で自治を勝ち取りつつ、それでいて皇室を廃止することのなかった時代として、好意的に描かれる時代でもあった。
 鎌倉新仏教を考える上では以前にも触れた最澄と空海の功績を思い起こさずにはいれない。最澄は大陸のあらゆる宗派を網羅的に延暦寺に置く、仏教博物館的な役割をになった。したがって延暦寺に入ればとりあえずあらゆる仏教的学問が手に入る状態を作り上げたのだ。延暦寺からは法然(浄土宗)や日蓮(日蓮宗)が登場する。また空海は唐の長安で当時の高僧恵果から密教の秘伝を受け継いだ、密教の正統後継者となった。しかし空海は日本に戻るとむしろその日本的読み替えを行った。これは、道元が支那から禅を持ち帰った時に同様に日本流の読み替えを行っていることと合わせて考えると興味深い。ちなみに道元も若いころ延暦寺に通っている。
 鎌倉新仏教は禅の栄西(禅の一派である臨済宗の開祖)以外は多く権力に近付くというよりも一般大衆に信仰を広める形で発展していった。これも民に力があった時代ということの一つの証左となろう。
 当時爆発的に流行したのは念仏だと言われる。念仏というと法然の浄土宗やその弟子親鸞の浄土真宗が有名だが、これらはこの時代には栄えていない。浄土真宗が栄えるのは戦国時代である。しかし念仏を唱える一派自体は大きく成長した。例として一遍の時宗をあげたい。一遍は「時衆」と呼ばれる集団とともに市街を練り歩き踊り念仏を広めたとされる。一遍が革新的であったのは葬式を僧侶が担ったことである。今まで一部権力者を除き葬礼を僧侶が担うことはなかった。あったかもしれないがそれは一僧侶の善意という形で行われていた。しかし一遍は葬式を僧侶が担うことで、仏教を庶民の生活に根付かせる役割を果たした。もともと葬式を重んじるのは仏教ではなく儒のほうである。それを仏教徒が行ったというところに儒仏の習合を思わせる。我々は簡単に「葬式仏教」と言ってしまう傾向にある。このブログでも葬式仏教に堕した信仰心の欠如を批判することもあろうが、しかし葬式を担えるというのはその社会に受け入れられたということでもある。
 鎌倉新仏教は平安時代に宿痾のように行われた、権門盛家の子弟が出家し高僧になることで出世するといった、世俗にまみれた構造をぶち破る効果を果たした。それは、政治的にも武士が登場し、藤原氏のみの権門政治を打破したのと交錯している。平安時代にも空也などの僧はいたが、一部先覚にとどまった。それらが鎌倉時代に花開いたと言える。そしてその鎌倉新仏教は大陸のどこにも則らない日本独自の形として表れたのだ。内藤湖南は応仁の乱以前の日本は現代日本に何の関係もないというような放言をしているが、私はそうは思わない。鎌倉時代にも現代に影響を及ぼす信仰があったし、それは、批判的な形だったにしろ、平安時代末の状況下から生まれたのである。

 南北朝時代から室町時代にかけての信仰を特徴づけるものとして朱子学がある。朱子学は南宋の朱熹が大成した学問の型であり日本には鎌倉時代に禅僧が伝えたものである。ちなみに朱子学は、北方の女真族の国金やモンゴルに圧迫される中で生まれた思想であり、唐の時代まではある程度盛んだった仏教もこのころより揮わなくなる。余談ついでにもうひとつ言うが、南宋のあとの元の時代はモンゴル人王朝らしく仏教がふたたび盛んになる。その元を打倒した漢民族の明朝では再び朱子学が正統な思想とみなされるのだ。
 そんな朱子学は我が国では鎌倉時代は禅僧や一部の公家で語られる程度であったが、後醍醐天皇という熱烈な信奉者を得たことは特筆せねばならない。後醍醐天皇というさまざまな意味で歴代天皇とは異質な天皇は、密教にも多大な興味を抱いていたが政治思想としては朱子学の考えを持っていた。おなじく朱子学者だと思われる人物が楠木正成である。楠木正成などは南北朝で南朝が負けると「逆賊」扱いされていたのだが、江戸時代明の遺臣朱舜水に見出されて初めて戦前のような忠臣の地位を得たのであった。朱子学の人が異国人の朱子学者に初めて評価されたというのも興味深いことである。
 この時代、同じく南朝の北畠親房によって書かれたのが『神皇正統記』であった。『神皇正統記』は朱子学と伊勢神道の両方の影響を受けている。『神皇正統記』は神と儒(朱子学)の習合のわかりやすい例である。
さて少し時代が下って室町時代には、一向宗と日蓮宗が復活を遂げる。一向宗とは親鸞が作った浄土真宗のことである。浄土真宗はすたれていたが蓮如という大宣伝家を得て一気に勢力を拡大した。一向宗や日蓮宗は戦国大名と対峙するほどの勢力を手にしたりもした。石山本願寺などは織田信長がなんとか平定し、その跡地には豊臣秀吉が大坂城を作っている。
 室町時代も前半は大陸調の文化が栄えたが後半はむしろ日本流の様相を見せる。足利義政の銀閣は今の和室建築の先駆けであるし、またお茶やお花が始まったのもこの時代であった。これらはすべて禅的な影響を受けている。簡素できらびやかではないがその中に美を見出す考えはこの時代に登場した。わびさびや幽玄をよしとする文化はなかなか諸外国には見出しにくい。

 日本人には鎌倉新仏教という、他の東アジア世界には見られなかった独自の信仰の発展がみられた。仏教はもはや外来思想ではなく、日本人によって編み出された信仰となったのだ。鎌倉新仏教は現在の日本人の精神生活にも大きな影響を与えている。この時代を軽視することは考えられないのだ。

(続く)

「伝統と信仰 第三章 伝統と仏教、儒教」への2件のフィードバック

  1. 中世を評価する立場といふと原勝郎「日本中世史」と平泉澄の「中世に於ける精神生活」
    を読み比べると面白いです。
    なんか自分もどっかに書いた記憶がありますが鎌倉仏教は聖徳太子の如来蔵やそれを受けた最澄の天台本学思想
    の影響も受けていますね、能(特に霊が主役となる夢幻能、植物や動物の成仏が描かれる場合がある)
    なども天台本学思想の影響を受けています。
    例として挙げられている時宗の一遍も「とふなれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」
    といふ本覚思想的な歌を詠んでますしね。
    本覚思想的なものはインドにもあったようで(例:理趣経の自性清浄等)それが高じて後期インド密教は
    性的にかなり乱れてしまったやうです(桜井宗信 「インド密教儀礼研究―後期インド密教の潅頂次第」)、
    日本でいえば真言立川流や天台宗系の玄旨帰命壇も後期密教(タントラ教)の影響を受けています
    末木 文美士等一部の仏教学者は日本神話も古代以来の日の神信仰が善神が国土を守護するといふ
    仏教における一思想の影響を受けて誕生したといつています
    (日本宗教史、日本仏教入門など)・・・これは賛否が分かれることではありますが・・・

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