伝統と信仰 第四章 日本人と耶蘇


 第四章 日本人と耶蘇

 死の恐怖の克服を目指さない思想は思想の名に値しない。人類はその生活を豊かにしてきたが、人生の苦しみの総量を減らすことはできなかった。金銭や物量では人生の煩悶を克服できない。昔の人より今の人のほうが幸せだなどという思い上がりはしない方がよい。

 生老病死は我々を日々襲い続ける。耶蘇もそうだが、信仰とはそうした生きる苦痛に向き合うものである。では、信仰を持てば、生きる苦痛は和らぐのだろうか。もちろんそうではない。信仰は生きる苦痛を和らげるといった、功利的なところには存在しない。生きる苦痛に直面したときに、自然と人為を超えた「何か」を感ぜずにはいられなくなる。そこにこそ信仰は宿るのである。
 正岡子規は、死ぬ方がはるかに楽だと思えるほどの激痛の生活の中で、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」という言葉を残した。それは、「平気で生きて居る」ことがいかに難しいかを、逆説的に示している。

 日本における耶蘇の歴史は、ある時期まで迫害と無理解の連続であった。果たしてその時の耶蘇教徒は、生きる苦しみは生老病死に限らないと思っただろうか。迫害と無理解の中でも、「平気で生きて」いたのだろうか。

 日本に耶蘇教が流入したのは室町時代である。有名なフランシスコ・ザビエルがもたらしたという。もちろんこれは偶然などではなく世界史的な意味があった。
 欧州は当時宗教改革のさなかであり、腐敗したカトリック教会に対する不満、批判が高まっていた。カトリックのほうもその不満をもっともなものと認識しており、なんとかして改革する必要を感じていた。そこに宗教改革があり、強い抗議(=プロテスタント=「抗議する人」の意味)を受けた結果それを引き金としてカトリックのほうも本格的な信仰改革に乗り出した。そんな情勢の中でつくられたのがザビエルもいた「イエズス会」である。つまりザビエルは強烈なカトリックの闘士であり、何とかして海外に信徒を増やすことを使命としていた。
 ザビエルは東亜各国を訪れたあと東南アジアで日本人とであったことにより日本に興味を持ち、来日する。鹿児島、京都、山口などを訪れ、再びインドや支那に布教するために日本を発っている。
 ザビエルののちも次々と後進が来日し日本人に耶蘇を伝えた。日本でも仏教界は信仰というより寺社領や商売の場所貸しなどで巨利を得て世俗的な勢力になっている場合が多く耶蘇教はそれなりの信徒を得た。海外との貿易のため積極的に耶蘇を受容するよう勧める大名もあった。そんな中で四人の少年が逆に日本から欧州に渡るということがあった。天正少年使節である。彼らは耶蘇の教養を身に着け、耶蘇教神父(無論外人)が作った耶蘇教教育施設で学んだ人たちであった。

 欧州につくと彼等は東洋から来た珍しい少年ということで注目の的になった。欧州人は彼らに自国の文明や耶蘇教文化を誇って見せたが彼らにとっては日本で教育を受けているので驚くに値しなかっただろう。彼らは日本で学んだ耶蘇教教育の成果を見せ当時の欧州人を驚嘆させた。そして東洋文化への強い関心が惹起されたのであった。それらは東洋趣味(「オリエンタリズム」)に過ぎないとはいえ東洋趣味が流行となったのはひとえに彼らの成果と言えよう。さてこの時代西洋の文物も耶蘇教を通して日本に伝わっている。印刷術などもそのひとつである。『平家物語』なども活字化されている。貿易も盛んであった。ただし後述するが貿易はのちにプロテスタントであるオランダ人が優勢に立つことになる。
 さて時の権力者豊臣秀吉と同世代の人物に、フェリペ二世がいた。このフェリペ二世は熱心なカトリックの信徒であった。カトリック側の改革及び東洋への布教は当然カトリック信徒の世俗君主の東洋への領土的関心とも結びついた。フェリペ二世の頃スペインは最盛期であり「太陽の沈まぬ帝国」とさえ呼ばれていた。秀吉の「唐入り」はスペインの東洋進出への対抗処置であったとも言われるが実際のところ動機は未だに不明である。が、いずれにしても唐入りの頃より秀吉は耶蘇教に警戒心を持ち、弾圧の方向に政策転換し始める。そのきっかけと言われるのがサン・フェリペ号事件であり、それはスペイン船である。
 秀吉から徳川家康の治世になってもしばらくは耶蘇教には警戒するが貿易は歓迎するという対応が続いた。その結果信仰の問題と貿易の問題を分けて考えるプロテスタントのほうがむしろ家康などに重宝される結果となった。またスペインは急速に力を失いつつあり、日本での貿易合戦はイギリスとオランダの両プロテスタント(イギリスは国教会である。日本人は国教会をカトリックとプロテスタントの中間ととらえることが多いが熱心なカトリックに言わせればプロテスタントということになるようだ)の争いとなった。最終的にオランダが勝利し、また江戸幕府の禁教令とも相まって日本との貿易は以後(西洋の中では)オランダが独占することになる。

 江戸幕府により耶蘇は禁制とされた。聖書やマリア像は無論西洋楽器を持っているだけでも火あぶり磔の対象となった。棄教する者も多かったが、信仰心篤き日本人はむしろ潜伏することにより己の信仰を保ったのであった。それは村ぐるみで行われたりもした。個人単位では密告等ですぐにばれてしまうからである。
 長崎には現在でもその「かくれキリシタン」の後継が残っているという。彼らの信仰は変わっているようにも見える。家には神棚か仏壇が必ず置いてある。ところがその奥の誰にも見つからないところに「キリスト像」などを隠し持ち、それを拝んでいる。「納戸神様」などとも呼ばれるようだ。そこで彼らは祈りの言葉を唱え先祖を祀るのである。この祈りの言葉を「オラショ」という。オラショはまだ耶蘇が禁制とされないころ伝え聞いたラテン語の祈りの言葉が長い年月によりなまったものである。それは歌のようでもあり、お経のようでもある。私は機会あってそのオラショの録音されたものを聞いたことがある。お経のようでありお経のようでない不思議な音を奏でていた。そこには西洋の香りなどみじんもせず完全に日本化されていたのである。しかしその節回しの起源は西洋の聖歌にあるようである。それが長い年月を経て徐々に日本化されていったのである。もはやそれは神道とも仏教とも耶蘇とも言い難い「何か」になっていると言える。楽器も本もダメとなると、人々は声で信仰を語り継いだ。口と脳と心まではいかなる政治も干渉できない。歌のようでもあり、お経のようでもあるオラショは人々に語り継がれる中で純粋な耶蘇とは違う何かとなり、人々はその日本的な「何か」を信じたのであった。明治になり耶蘇への弾圧がとけた後に西洋流のカトリックに入信しなおす者もいたが、今まで通りオラショを語り継ぐ者たちも多かった。おかげで現代の我われもオラショを耳にできるのである。ある意味では本場の耶蘇を拒絶し、土俗化した信仰を選びとったと言えるのかもしれない。最初は弾圧を逃れるための方便だった行動がいつしか信仰そのものとなっていったのである。
 
 不干斎ハビヤンという人名すら読者は初めて目にする名前かもしれない。不干斎ハビヤンは永禄八(西暦一五六五)年の生まれなので若干時代が戻ることになる。ハビヤンは無論日本人であり、最初禅僧であったが耶蘇に改宗、ハビヤンという洗礼名で活動後、耶蘇を捨てている。戦後日本においての不干斎ハビヤンの紹介者と言えば山本七平である。氏の『日本教徒』はそのほとんどが不干斎ハビヤンに関する記述で占められている。なぜ山本がハビヤンに注目したかと言えば彼は仏教を捨て、耶蘇を捨て、神道も儒も(事実上)捨てているからだ。既存の(そして外来の)信仰をすべて捨てた後にハビヤンは何を信じたのか。そこに山本の問いがある。山本はしつこいほどにハビヤンの考えを探っているが、それは山本の著書に委ねて、ここではハビヤンが結局日本的自然法ともいうべき自然秩序に身を委ねたことに着目したい。
 ハビヤンは数々の信仰を渡り歩いた。だが彼は外側は変わろうとも内面が大きく変わったわけではない。彼は常に日本の自然法の擁護者であり、各信仰がそれらに違反していると批判していた。ハビヤンの場合それは受恩の義務を果たすことにあったが、より根本的には自覚的に世の中を構想したりする主義の否定とも言える。天地の秩序、自然の教えに逆らわずに生きることこそが正しい生き方と信じた。
 それにしても若干気になるのが日本における信仰の問題に着目した人間が必ず大なり小なり耶蘇との関連がある人物だということである。日本人は何を信じているのか。そういう問いを心に抱く人間が耶蘇と関連しているのは耶蘇が本質的に一神教という日本社会ではなじまない信仰形態だからであろう。自分が異端であり少雨者であることを知ったとき人は多数派の信仰に興味を持つのである。山本七平にしろ、内村鑑三にしろ、遠藤周作にしろ、芥川龍之介にしろ、今後登場する予定である山路愛山や新渡戸稲造もみな耶蘇と関連があった。多神教的で簡単に共存を許してしまう文化は逆に信仰の問題をあまり深く考えない風土とも直結してしまうのだろうか。

 耶蘇などが持つ、明確な教義と教会組織は、明治時代以降の日本人の宗教観にある種の劣等感を植え付けている部分がある。私自身それから逃れきれているか自信がないほどである。生活の中で習慣、風俗となって息づいている信仰は、どこか宗教ではない、あるいは未熟な信仰であるかのように考えてしまう部分は、なかなか拭いづらい。教典のない信仰は説明するのが難しいからであろうか。

(続く)

「伝統と信仰 第四章 日本人と耶蘇」への2件のフィードバック

  1. 釈撤宗は「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」でハビアンの「妙貞問答」や「破堤宇子」は日本初の神・仏・儒・基の比較宗教学であると評価していますね・・・、多くの宗教を並べて比較、批判し、日本化しつつ享受するといふのは日本独特なものがありますね、山本七平と小室直樹が「日本教の社会学」で本来のキリスト教は神との契約がすべてで偶像などに価値はないのに踏み絵といふ一種の被造物、偶像を物神化させ逆にそれに支配されたが、まさに日本的発想で本来のキリスト教とは似て非なるものになっているといふやうなことを言っていて妙に納得した記憶があります((笑))
    日本における信仰の問題といへば植村和秀は「丸山真男と平泉澄」の中で平泉澄が国体への信仰といふ不動の精神的機軸を日本に確立せんとしたと評しています、平泉門下は単なる学派ではなく平泉を中心とした教会であり同学は信仰の友であるとのこと、ちなみに平泉は「神道の本質」といふ講演の中で菅原道真、北畠親房、真木和泉守等を神道や国体への殉教者としてとらへています(「平泉澄博士神道論抄」所収)。これだけが日本における信仰のすべてではないでせうが個人的には考へさせられました。

  2. トライチケさん
    明治以降の歴史は既存の宗教が力を失う中で精神的機軸をどこに置くかを模索しつづけた歴史でもあるように思えます。この問題は次章以降の内容にも深く関係するところなのでこうしたご意見はとてもうれしいです。

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