伝統と信仰 第五章 内村鑑三と耶蘇教、武士道


 第五章 内村鑑三と耶蘇教、武士道

 今まではほぼ時系列的に日本人の信仰を見てきたわけだが、ここからは題目に沿って日本人の信仰を考えていきたい。今までも断片的に江戸時代、戦前期の信仰の動きについても触れてきたわけだが、今後は明治時代から戦前昭和にかけての日本人の信仰が中心となる。本稿は日本の宗教史を概説的に振り返るのが目的ではない。あくまで日本人にとっての伝統、そして信仰とは何かを追究する試みである。

 一つ本稿の結論を先取りしたようなことを述べると、現代は伝統と信仰が大きく欠落した時代である。人々は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、大いなる大望を抱くことを忘れている。日本人の、そして人類の精神の救済は後回しにされている。
 だが、だからこそと言ってよいが、現代は伝統と信仰の時代なのである。伝統と信仰が欠落しているのに伝統と信仰の時代とはどういうことだ、と人は問うかもしれない。だが、伝統や信仰が著しく退潮しているからこそ、村の有力者が言っているからとか、そういう世俗的理由にさいなまれず、真摯に伝統と信仰について追究することが可能になるのである。
 人は、いつも「今ここにない何か」を求めて彷徨うものである。現代という道徳的荒廃の時代に生まれ落ちたとき、果たして真実なるものとは何か、信ずべきものはあるのか、利害関係を超えた価値はあるのか、という問いが自然と湧き上がってくる。その時に、伝統と信仰の種がその人の心に植えつけられるのである。あとはそれが芽吹いて大きく育つのを待つだけである。

 明治時代も、現代と同じく道徳的荒廃の時代であった。古き者は安直に忘れ去られ、文明開化、富国強兵、殖産興業の軽薄な、しかし帝国主義の中で生き残ることに必死な悲痛な言葉が、世に満ち溢れていた。そんな中で、耶蘇は儒学に代わり日本人の道徳を作る指針として受け入れられたのであった。したがって明治時代の耶蘇教とは儒学に大いに影響を受けている者が多いし、その耶蘇教理論は耶蘇を語っているようで儒学を語っているかのような響きさえ感じることがある。内村鑑三も、その一人であった。もっとも内村は、耶蘇教徒らしく儒教や仏教を批判している。内村が耶蘇に託したのは武士道の美学であった。内村は耶蘇を通して武士道を語る思想家であった。

 桶谷秀昭は、内村鑑三は耶蘇教を信じたことを後悔したに違いないと書く(『天心 鑑三 荷風』105頁)。内村は農学を学ぶために札幌農学校に入ったが、札幌農学校ではクラークが作った制約によりキリスト教に改宗されてしまったのだ。キリスト教に改心されしまった自分を元に戻すことはできない。私生活の失敗もあり、何かもうまくいかないまま、内村はすべてを捨ててアメリカに渡る。そこで見たものは、アメリカで見た人種差別の光景である。内村はこれを「アメリカはキリスト教的でない」と憤り、「おお、天よ、余は破れた! 余は欺かれた! 余は平和ならざるもののために真に平和なるものを捨てたのである! 余の旧い信仰に立ち帰るには余は今余りに生長し過ぎている、余の新しい信仰に黙従することは不可能である。おお、祝福された無知が慕わしい!」と叫ぶのである(『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫版124頁)。
 この悲劇的な欺かれたという叫びは、内村の信仰に対する叫びであると同時に、明治の「文明開化」に対する日本の対応とも交錯している。この何重にも屈折した心情は、生き残るために西洋文明への「改宗」を余儀なくされた日本の姿でもある。それは物質文明への反感として、いつまでも日本人の心を拘束するものであった。

 この章は内村の名前を冠してはいるが内村そのものについて論じるというよりは、今後の章にて行われる論理展開のある種の予告である。したがっていくつか内村の言葉を並べることで終わりとしたい。

 「長くつづいた日本の鎖国を非難することは、まことに浅薄な考えであります。日本に鎖国を命じたのは最高の智者であり、日本は、さいわいにも、その命にしたがいました。それは、世界にとっても良いことでした。今も変わらず良いことであります。世界から隔絶されていることは、必ずしもその国にとって不幸ではありません」(『代表的日本人』岩波文庫版13頁)

 「封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです」(同53頁)

 「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。(中略)「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう」(同67頁)

 「武士道もしくは日本の道徳は、キリスト教そのものよりも高くて優れている、したがって、それで十分だなどと思い込んではなりません。武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その価値は、スパルタの道徳またはストア派の信仰と同じものです」(同182頁)

 「(引用者註:木を植える大切さを力説した後で)しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります」(『後世の最大遺物 デンマルク国の話』岩波文庫版85頁)

 「人のためと言えば、多くは彼の衣食の道を立てることを言い、国のためと言えば、多くは富国強兵を称う。しかしながら人は必ずしも衣食足りて礼節を知る者ではなく、国は必ずしも富と兵との上に立つものでない」(『内村鑑三小選集 愛国心をめぐって』12頁)

 「私をして非戦論者とならしめし第三の動力は、過去十年間の世界史であります。日清戦争の結果は、私にツクヅクと、戦争の害あって利のないことを教えました。その目的たる朝鮮の独立はかえって危うくせられ、戦勝国たる日本の道徳は非常に腐敗し、敵国を征服し得しも、故古川市兵衛氏のごとき国内の荒乱者は少しもこれを制御することができずなりました」(同40頁)

 内村の無教会主義を受け継ぐ者の中には、今日では左翼思想を抱く者もいるようだが、内村自身は一時代を築いた思想家にみな共通するように、あらゆる立場を包含する複雑さを持っていた。内村には強い日本への愛着と、武士道への誇り、自然と国民精神への信頼があった。そしてそれが必ずしも政府や富、利益と結びつくとは限らなかったことを知っていたのである。

(続く)

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