伝統と信仰 第六章 武士道と信仰


第六章 武士道と信仰

 儒学の中にも諸派あるが、日本人にとっての儒学として大きく二つに分けるとすれば朱子学と陽明学となるだろう。そしてこの朱子学、陽明学という考えは日本の信仰と結合し「武士道」とか「水戸学」とか言う考えとなったという点で避けては通れないのである。
 日本最初の陽明学としてときに言われる人物は中江藤樹である。藤樹は母を介護するために藩の職も辞した。「孝」をただ観念でとらえるのではなく己のものとして実践したのだ。藤樹は私塾を開いて生計をたて、「近江聖人」と呼ばれた。藤樹が教えを講じてからその街には犯罪がなくなったなどという伝説もある。
陽明学と朱子学の大きな違いは「理」は心の外にある(=朱子学)か内にある(=陽明学)かということだ。理とは己の良心であるという陽明学とは己の良心の実践に関心が向いたのである。
 陽明学徒は自分を「陽明学」とくくられることを嫌うという。自分はあくまで正しい道の実践に勤めているのであり、特定の学派に所属しているのではない、というわけである。そのため陽明学徒は正義漢ではあるが一匹狼的な人間が多い。
 江戸時代に現れた他の陽明学徒としては佐藤一斎があげられる。佐藤一斎は『言志四録』の著者として有名である。佐藤一斎は幕府の儒者だったので体面上は朱子学であったが陽明学に同情的だったと言われる。その佐藤の弟子が大塩中斎(平八郎)であり佐藤の本を愛読していたのが西郷隆盛であった。『日本外史』を書いた頼山陽も陽明学の影響を受けた人物に数えられるだろう。
 しかし陽明学が学者のみならず向学心あふれる人間に開かれたのはむしろ明治時代である。王陽明の『伝習録』は東洋趣味の知識人にとって読むべき文献の一つになった。そんな王陽明の評伝『王陽明』を書いたのは三宅雪嶺である。そしてその序文を書いたのは陸羯南であった。この二人はある時期の東洋趣味の知識階級の精神的指導者的な趣があった。
 そんな陽明学は明治以後むしろ「武士道」として唱えられることが多かった。

 武士道という言葉には毀誉褒貶が付きまとっているようにも思う。武士道の心が大事だと語られてみたり武士道は近代の産物に過ぎないと言われてみたりと、ある意味ではその論じられ方の多様さが武士道は一様に測れるものではないことを示しているようにも思える。その中でもよく聞かれるのが、「実際に戦闘をしていた武士は、武士道が顕彰するような正々堂々とした闘いをしなかったし、騙し打ちがむしろほめられたのだ」というものだ。命のやり取りをしているのだからそうなるのが当然だろう、と私も思う。しかしこの議論には読んでいて面白みもなければそれ以上の深まりも感じない。私が興味をひかれるのは武士が消滅した明治以降に武士道はなぜ爆発的に流行したのか、ということである。その根本的な原因は突き止められなくともその外縁だけでもつかめたら、と考えている。
 武士道と言ってもその内容は論客によりさまざまであり、またその起源もそれぞれである。考えられる起源としては中世末の武士道と、江戸時代の儒学的な武士道、そして明治の武士道の三者である。だがこれらは微妙に関連しあい、そして食い違ってもいる複雑なものになっている。
 中世の武士道は論理道徳というよりもむしろ戦闘技術面の要素が強かった。「弓馬の道」はいかにして敵を倒すか、ということに集約されていた。しかし一方で平家物語で那須与一が扇の的を射たのは有名だが、そのあと与一をたたえて踊りだした平家側の男も(義経の命で)与一は射殺している。それにより平家は興ざめするのだが、あえてこの話を挿入するあたりは筆者に武士の倫理意識のなさを嘆く心があったようにも思われる。また、木曽義仲の最期に現れる美意識など、武士の溌溂とした美意識は軍記物の中に数多く見られる。名を惜しむ武士の原初的な倫理意識のほうがのようなものが垣間見える。
 「武士道」という言葉自体は基本的に江戸時代に登場する。その初例は武田氏の活躍を描いた『甲陽軍艦』だと言われる。その後『葉隠』など有名な武士道本も出るわけだが、江戸時代に武士が官僚化するにつれて、実技的なものとともに武士の誇りといった精神的なものも重んじられるにいたった。実際の戦闘経験はなくとも精神を練磨しているから武士だというわけである。先に紹介した平家物語もそうだが、武士道が倫理性を獲得するのは太平の時代である。血なまぐさい戦闘から遠ざかると倫理性を要求するという構図は変わらない。思えば鎌倉時代に成立した御成敗式目の中に神仏を敬うようにという条文が書かれたのも平穏な時代になったからである。いつの時代も戦乱を離れると武士は倫理性を希求したのだ。それが時代が下るにつれて徐々に形になっていく。
 「武士道は近代の産物」などという見解にはこれしきも惹かれるものがないと書いたが、「近代」などという時代区分を勝手に用意しておいてその時代を前時代から隔離するような手法は本質的に言って歴史ではない。むしろそうした議論は現代の想像の産物にすぎぬと言ったほうがよかろう。

 話を戻して儒的な武士道の開祖は山鹿素行であろう。山鹿素行は赤穂浪士の大石内蔵助の師でもある。山鹿素行の武士道はたいてい「士道」と呼ばれ、(支那では士農工商の士とは士大夫、つまり官僚であることを踏まえ)倫理的統治者としての武士を描いた最初である。山鹿素行など江戸期の儒者により武士は戦闘者から儒的な「士」になっていくのである。ただし複雑なのは、士大夫を目指したからと言ってそれが即支那化にはつながらなかったことだ。彼らは儒を信じても支那に何もかも習うような愚は犯さなかったからだ。したがって彼らが目指す士大夫像もどこか日本的な土着の香りがする。武士は主君に仕え民を導き民のために世を治める存在となったのである。逆にいえば社会が行き詰ったとき世のため人のため立ち上がるのが武士のあるべき姿となったのである。水戸学や吉田松陰の思想などはその典型であろう。ちなみに吉田松陰は山鹿流の兵学を修めた人である。
 ここに戦国までの武士道が儒学、特に陽明学と溶け合っていく様子がうかがえる。だが、陽明学、武士道は江戸時代まではまだ一部の先覚が唱えているにすぎなかった。流行したのは明治時代である。山岡鉄舟、内村鑑三、乃木希典、陸羯南、新渡戸稲造。この何の脈絡もなさそうな五人に共通することは全員武士道を重んじたことである。ちなみに晩年の福沢諭吉も武士道を見直す旨を述べたことがある。これら武士道論者は基本的に国学者のような儒仏の排斥、神道のみの顕彰とはならなかった。むしろ儒、仏、神、などは東洋思想であり西洋文明に対抗するものとしてとらえられたのである。それは単純な弱肉強食社会への批判にもつながり、国外では西洋帝国主義への反発に、国内では安易な資本主義の論理の跋扈への反発となったのである。
さて、内村鑑三や新渡戸稲造は耶蘇教信者である。意外にも明治の世では活躍した人間に耶蘇教徒が多い。内村、新渡戸とともに当時有名な耶蘇教徒であった植村正久は言う。「社会をして武士道の昔に帰らしめよ。否むしろ吾輩が欲する所の者は洗礼を受けたる武士道なり」と。耶蘇と武士道は表裏一体なところがあったのである。

 今となってはなかなか想像しがたいが、明治の人々にとって耶蘇と武士道と社会主義はすべて相互に似通ったものとして受け取られた。これらの全部もしくは二つを同時に信奉した人物は多かったのである。
文明開化と言われたが日本が事実上大衆生活まで西洋化したのは大正時代であり、明治のころはせいぜい髷を切ったことと牛鍋が始まったこと、ガス灯が設置されたことくらいしか変わっていない、と言ったら大げさだろうが、少なくとも庶民の生活が激変したというほどではなかった。思想においても同様で、西洋思想は日本の既存の思想において読み替えられることが多かったのである。
 耶蘇は規律と博愛の宗教として迎えられた。江戸生まれの明治人にとって「文明」はあまりにも倫理意識に欠けるものとして映った。放縦と堕落がはびこり嫌悪感を催すものであった。かといって前時代にもはや後戻りするわけにもいかなかったのである。その時彼らの目に映ったのは耶蘇教であった。寺社は江戸幕府の支配の中で完全に官僚組織化しており、一部を除き信仰の場として機能していなかった。彼らは失った倫理意識を耶蘇の信仰の中に求めたのであった。内村鑑三は「陽明学は耶蘇に似ている」と述べている。むしろ内村らの耶蘇信仰は武士道へのあこがれに近かった。だからこそ内村は既存の教会に満足できず、無教会派になったのである。逆にいえば耶蘇の実態が知れてしまえば耶蘇もまた武士道の対案になりえないことが露見してしまう。徳富蘇峰は耶蘇教徒であったが後に耶蘇を捨てている。
 そして社会主義もまた国民への博愛の情として理解されたのであり、革命思想としては理解されなかった。社会主義もしくは共産主義が「階級闘争」と「プロレタリアート独裁」の思想になるのは明治末から大正時代にかけてである。それまでは社会主義とは博愛、現代でいえば福祉を重んじるというくらいに受け取られたのである。孟子の王は人民を第一とするという文脈で社会主義は理解された。幸徳秋水をはじめ初期社会主義者はみな耶蘇(木下尚江、安部磯雄)か孟子の信奉者(幸徳秋水、堺利彦、河上肇)であった。武士道もまた強者の弱者への横暴を嫌いむしろ弱者へのいつくしみをたたえる思想であった。社会主義は唯物主義とも言われるように、西洋では耶蘇の信仰と相性が悪いのだが、明治日本においてはそうはならなかったのである。
比較的社会主義、共産主義を西洋的に正しく理解していたのは晩年の幸徳秋水である。明治中期の幸徳はむしろ田中正造の明治天皇への直訴文の執筆をしたり、反皇室主義者ですらなかった。彼らの理想は孟子であり、仁徳天皇の統治であった。

 新渡戸稲造はその著『武士道』を著した動機をベルギーでの法学者との対話であったと述べている。その法学者に日本に宗教教育がないことを指摘され、宗教教育がないにもかかわらずどうやって道徳教育を行っているのか、と聞かれたのだ。
 新渡戸は日本の道徳教育の由来を武士道に求めた。その著『武士道』の構成は、武士道とは何か、という説明の後「義」や「仁」など儒的概念の解説となっている。ここでは武士道とは日本的儒学のことだということはほぼ自明のこととして通り過ぎられている。
 新渡戸は武士道を「日本の土壌に固有の華」であるとしている。日本的儒学の結晶でありながら支那思想の影響を少なく評価していると言える。孔子や禅の影響を新渡戸は認めてはいるが意外なほどあっさりと過ぎ去っていて、頁を割いていない。むしろ新渡戸の関心は欧州の騎士道との対比であった。『武士道』が英語で書かれて欧米の読者を対象とした読み物であることを思えばそれは別段驚くに足らない事であろう。欧州と日本はともに封建制をへた類似した国であると語られるのである。ある意味ではそれは欧州の侵略に対する祖国防衛の意味すらもっていた。
 新渡戸は「西洋の読者諸兄は、王陽明の著作の中に『新約聖書』と多くの点で似たところがあることに気がつかれるだろう」とすら書いている(『武士道』奈良本辰也訳、三笠書房版29頁)。やはり新渡戸にとっても耶蘇教徒は陽明学であり、武士道であった。新渡戸の『武士道』は無論武士道について書いた本なのだがその実武士道として語られていることは新渡戸自身の思想(耶蘇)でもあるのだ。新渡戸は耶蘇に武士道の面影と理想主義を見ていた。
 ちなみに新渡戸の著作を明らかに意識しているのはルース・ベネディクトの『菊と刀』である。新渡戸が提出した義務と義理の関係に異常にこだわっているのもその証左の一つと言える。だがその意図として新渡戸は日本と西洋は似通っていると言いたかったのに対しベネディクトはむしろ日米を対極の風土としてみなそうとした。
 日清日露戦争後日本は武士道が大流行した。武士道はある意味では堕落した近代化の時代において精神の緊張をもたらすものであり、それは耶蘇などの信仰の道と結びついた。もう一方で武士道は日本が世界に冠たる国となる所以だった。日本人には武士道があるからこそ日清日露の大戦役に勝ち抜くことができたのだとされた。そして武士道は時に西洋と東洋との微妙な関係を暗示的に示す標語ともなった。ときに武士道は西洋の騎士道の類型として語られたり、東洋思想(仏、儒)の精華でもあった。西洋になりきれず、かと言って東洋とともに植民地にされる立場になるわけにもいかず、中途半端にならざるを得ない当時日本の思想状況の中で微妙に揺れ動きながら語られ続けたと言える。
 大正時代になると武士道は忘れられて行く。 
 大正時代になっても明治の構図は生きており、たとえば熱心な耶蘇教徒であった吉野作造はその民本主義を徐々に強者と弱者の関係から説き起こすマルクス主義に近いものに変更させていった。だから吉野の弟子はみな戦前戦後を担った社会主義者となるのである。だが基本的に大正ごろより近代的考えの下熱心な信仰ということは重きを置かれなくなってきた。ただし日本においてそれが決定的になるのは戦後である。
 大正時代には各種の哲学書などを読むことが流行し教養主義の時代となった。その教養主義の流行は同時に近代に対する懐疑をも招くことになった。大正から昭和にかけていわゆる右左ともに様々な論客が登場するが彼らはみな大正教養主義を肯定なり否定なりしながら誕生したのである。
 対外的危機も相まってか、この時代には日蓮宗がはやっている。北一輝や石原莞爾、板垣征四郎や宮沢賢治、妹尾義郎など活躍した人物で日蓮宗の信徒は多い。必ずしも国家主義とは限らず、これらの人物に共通するのは安直な近代的合理主義を嫌ったということである。また神道や武士道の復活などが唱えられることも多かった。こちらは平泉澄などがその担い手となっている。

 昭和十五年、大東亜戦争中に河合栄治郎は次のように述べている。
 「大局を達観する洞察の明、大事を貫徹せずんば止まない執拗な意志、自己の持場を命を賭して守る誠実と真剣さ、小異を捨てて大同に附く和衷協同の心、何よりも打てば響く情熱、之こそが今日の、否将来の、祖国の難局を克服し得る精神的条件でなければならない。我々の祖先は武士道の名に於て、自己の進退を決する規準を所有していた。日本精神の叫ばれる今日、武士道の精神は地に塗れていはしないか。一言にして云えば、今日の日本には精神的弛緩がある」(『学生に与う』、南丘喜八郎『赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ』12頁からの孫引き)。ここでも武士道は、「自己の進退を決する規準」として、「我々の祖先」が持っていたものとして捉えられている。

 話を幸徳秋水に戻そう。幸徳は大逆事件を起して処刑されるわけだが、大逆事件とは管野すがらが明治天皇を暗殺しようと企てて事前に発覚し逮捕され死刑になった事件である。管野すがは幸徳秋水の愛人であり、したがって当時の社会主義者の中でも大物だった幸徳秋水も関与していたのではないかとして連座され、共に死刑となった事件である。現在では幸徳は無関係であったという説がほとんどである。
 管野すがは最初海軍軍人の妻となるがうまくいかず、後に同じく有名な社会主義者であった荒畑寒村の愛人となる。ただしこの関係は管野すがが年上であり、当時としては珍しい男女関係であった。その後荒畑寒村が赤旗事件で入獄している間に幸徳と親しくなりいつの間にか幸徳の愛人となっていたようである。既成道徳に反対する立場である社会主義者にはこのような男女関係のもつれも時に見られる事態ではあった。ただし幸徳はこれにより社会主義の仲間からも不興を買った、とも言われる。この辺り大杉栄と伊藤野枝の関係も、同志から不興を買って窮地に陥るなど、共通点が見られて面白い。
 さて幸徳は孟子や陽明学を信じる儒学徒でもあった。幸徳は師の中江兆民から革命の哲学を学んだが、一方で孟子や陽明学、そしてその背後にある武士道から己の義とするもののためなら命を捨てても構わないという情熱を身につけていた。社会主義や無政府主義の活動はその実践に他ならなかった。
 明治時代にも陽明学に対して、向う見ずに突っ走る傾向にある、という批判はあった。大逆事件の後には特にそれがささやかれることになった。陽明学は社会主義の元ではないか、とささやかれることになったのである。もちろん穏健な陽明学徒はそれを正す必要に迫られたのは言うまでもない。だが陽明学は反藩閥政府感情などとも結びついて社会主義かそうでないかなどというような単純な議論でははかれなくなっていた。なぜなら尊皇思想を生んだ水戸学もまた儒学の強い影響下にあったからである。当時の陽明学会は大逆事件の翌年に水戸学に大きな影響を与えた朱舜水の碑の建立に尽力している。それは非尊皇の疑いを払拭する予防線でもありながら、幸徳の行動もまた陽明学であり、碑の建立もまた陽明学であるという陽明学の(何か固定した哲学というよりも)己の義の心に従うという多様性が生んだものでもあったのだ。この大逆事件はさまざまなところで尾を引いており、後述の南北朝正閏論争の他に上杉慎吉と美濃部達吉の天皇機関説論争の火種となる対立もこれがきっかけである。
 また幸徳は大逆事件の取り調べの中ですさまじい言葉を吐いたということが世間にまで漏れ聞こえることとなった。「いまの天子は南朝から三種の神器を奪い取った北朝の子孫ではないか」と言うのである。これに呼応して当時の日本では南北朝正閏論争が起こることになった。南朝と北朝どちらが正統なのか。南朝だと言えば幸徳らの行動を認めることにもなりかねず、北朝である現皇室も危うい。しかし北朝が正統だと言えば水戸学以来の尊皇思想の根拠を失うのである。「南朝が正統である」という立場から論陣を張った者としては儒学系の社会主義者の他には三宅雪嶺などがいる。三宅は国粋主義者として陸羯南などとも行動していたが社会主義者とも親しく幸徳秋水の『基督抹殺論』では序文も書いている。これは単純な南朝と北朝どちらが正しいかという論争だけでなく、大逆事件の意趣返し、そしてさらには藩閥(薩長)かそれ以外かといった明治維新までの日本のひずみをすべて抱え込むような問題となっていた。結局論争自体は沈静化したが、明治以来の宿痾とそれに伴う「国体」の奪い合いは敗戦までさまざまな形で表れることになった。私は、日本人はもっと尊皇的であるべきだと思うが、結局戦前も尊皇を叫ぶ時、それを取り巻くさまざまな政治状況や地縁血縁から離脱して単純に陛下への敬愛の情を語ることはほとんどできなかったのである。さらには尊皇思想が江戸期において外来の朱子学的思想に取り込まれがちだったことはその「尊皇」という言葉に秘められた問題の根をさらに深くしている。

(続く)

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