伝統と信仰 第七章 近代化のかなしみ


 第七章 近代化のかなしみ

 果たして、西洋発の文物を学ぶことは、「西洋化」なのだろうか。あるいは、近代思想を身に着けることは「近代化」と言えるのだろうか。

 志賀重昂は「「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す」で、「予輩は「国粋保存」の至理至義なるを確信す。故に日本の宗教、徳教、教育、美術、政治、生産の制度を撰択せんにも、亦「国粋保存」の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非ず、只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也」(『近代日本思想体系31 明治思想集Ⅱ』10頁)と述べている。こちらは天心と比較すると随分楽観的な印象すら受ける。要するに西洋文明は日本国粋によって消化することによって受容できるというわけなのだ。
 陸羯南は『近時政論考』で、「国民論派は既に国民的特性即ち歴史上より縁起する所のその能力及び勢力の保存及び発達を大旨とす」(『近時政論考』岩波文庫版82頁)と述べ、要するに日本人の国民性の保存・発達に資するなら、近代文明の受容も良しとした。丸山眞男などはこうした陸の議論を「進歩性と健康性をもった」ナショナリズムであると評している(『戦中と戦後の間』みすず書房281頁)。進歩的で健康的、開明的なナショナリズム! 果たしてそのようなものはあるのだろうか。そのような評価は彼らの「楽天」性を言葉のままに受け取りすぎていないだろうか。
 確かに日本の国粋は大事だ、だが国粋の保存・発展に役立つなら外来思想だって何だってよいではないか、と言うのは鷹揚で、功利主義的な態度にすら感じられる。だが彼らは同時に当時の鹿鳴館外交を批判し、屈辱的な条件による条約改正を拒絶していたことを忘れてはならない。つまりは攘夷論と混同され、読まれもしないうちにレッテルだけ張られるのを避けたいと言う強い思いから、彼らは西洋思想を受け入れて見せたのではないだろうか。
 同時に、彼らは国際政治の現実をよく知っていた。西洋列強にその存在を認知させ、独立国として認めさせ、生き残っていくには、「近代化」は避けようのない事態であった。だが、それに当っては、日本人としての自意識をどうするのかという問題が横たわっていた。福沢諭吉のように文明化文明化と無邪気に唱えるわけにはいかなかった。近代化は急激な変化でありすぎて、まるで別の国のようになってしまうからである。日本史における「第一の敗戦」とでも呼ぶべき事態であった。だからこそ彼らは「日本国粋の保存・発展にそぐうものであれば受け入れてもよいのだ」と、あえて鷹揚な態度をとることで日本国粋を守った。むしろ直接的に西洋文明への反発を示せた岡倉よりも、絶望は深い。桶谷秀昭は「和魂洋才」を「近代日本の文明に対する絶望」と捉えた(「和魂洋才と文明開化の逆説」『時代と精神 評論雑感集 上』32頁)。陸羯南がもう少し直接的に西洋文明への反発を語るには、『国際論』を書く日清戦争期まで待たなければならない。
 桶谷は明治人の、西洋化になじめないものを感じながらも西洋化しなければ国が亡ぶ、という危機感の中で生まれた心の動きを「狂気」「悲劇」(『歴史精神の再建』序章、34頁他)と呼び、それをそのまま受け止めようとしているように思われる。明治維新は西洋文明に対する日本文化の敗北であった。だが敗北したからと言ってこれからは文明だという軽薄さを持ち得なかった人々がいた。むしろ敗北は永続への試金石となり、何を残すか、何のために残すかを深く問いかけることになったのである。敗北してもなお継続させる「何か」を問うことは、維新という敗戦を経た日本人への大きな課題となった。

 山路愛山の『現代日本教会史論』は、日本人の精神活動が軟化したのは徳川時代の政策によるとしている。仏教が国教化されており、それに対し精神の自由を求めて朱子学や陽明学、国学、心学が生み出されたとしている。そして明治以降日本人が欧化してしまったのは幕府が日本人の真実の信仰心を妨げてきたからだという。この本は基本的には日本の耶蘇教の歴史をたどる本である。耶蘇と儒学が結合していくこと等を中村正直の例などを引きつつ述べられているところなど、興味深いところが随所にみられる本である。また朱子学が唯物論に傾きやすくなったり、陽明学が唯心論になった傾向などを解説したり山路のするどい観察眼がうかがえる良書である。山路はそこまで踏み込んでいないが、もともと例えば孔子が「子、怪力乱神を語らず(先生は怪異暴力背徳神秘は口にしなかった)」(述爾編)と言ったりすることに対して「孔子は迷信を拒絶した、唯物的人間だ」という解釈も可能だが、「信仰についてあれこれ語ることを嫌いとにかく信じることを重んじたのだ」、という唯心論的な言い方もできるからだ。
 『現代日本教会史論』は山路の観察眼が面白く、この本で山路は単純な年譜的な日本の耶蘇教史だけでなく欧化主義やそれへの反発なども踏まえながら史論を展開しているのである。欧化への反動を単純に批判的に見るのではなく、模倣に急だった日本が自己の歴史の内にある「日本人民の脊髄となるべき原理」への自覚として捉えたのである。ただし山路は「保守反動」論者が耶蘇に対して反発したことに対して批判的である。また、先ほども述べたように山路は江戸時代は仏教が国教であったと述べている。国教という言い方が適切かどうかはともかく、寺請制度により人々が何らかの寺院に所属することを求められたことは確かである。国家神道もそうだが、国教化すると信仰を失って、どこか役所の出先機関のようになってしまうところがある。寺請制度は日本の仏教界にとっても不幸であったのかもしれない。ちょうど国家神道によって地方の小神社が次々とつぶされてしまったように。
 山路は社会主義の勃興に対しても注意を払っている。耶蘇教と社会主義の結合も触れている(ただしこれに対してはあまり頁を割いていないのが残念である)。その上で日本の教会が外国人宣教師から自由になることを強調して終わっている。
 『現代日本教会史論』は単純な信仰の変遷だけでなく日本人の心の内面に踏み込んでいる。彼らが信仰の歴史をつづったのは単純な歴史叙述を目的としたのではなく、日本人が浅薄な合理主義から信念の道に踏み込む道案内の役目を果たそうとしたからであった。

 西洋物質文明への反発として、東洋文明は王道の文明であり、東洋文明は道徳文明であると言う主張はアジア主義者に共通しながらも、その道徳とは何か、と言うところになると、必ず自国の歴史や国益が顔をのぞかせる。そもそも道徳とは社会、文化によって培われるわけだから、文化を超えた道徳はほとんど存在しない。あるとすればそれは人類共通のマナー程度のものに簡略化されてしまう。
 橘孝三郎は『日本愛国革新本義』で、「資本主義西洋唯物文明は純粋にヨーロッパ的なものであって東洋のそれとは全く文明の本質形相を異ならしめている」(『現代日本思想体系31超国家主義』220頁)と述べ、東洋とヨーロッパを真逆のものとしてとらえている。あるいは日本の思想史上誰となく幾度となく繰り返された論法であるのかもしれない。
 東洋と西洋文明を真逆に置く論法は実証的ではない。しかし西洋化してしまった日本の悲劇とそれに安住できない自己のよりどころが、常に「アジア」に求められ、それはそう簡単に克服できるものではない。西洋文明への抵抗と反発の中に「東洋」を見出している。西洋文明の受容は避けることのできない事態である。それを自覚しながらもあえて反発に身をゆだねる。それが敗北の道であったとしても、だ。

 大地を離れて生きる人生は、人間本来のものではない。しかし近代化は、人間を大地から引きはがす歴史的事業でもあった。たとえそこが農村であったとしても、もはやそこには人間に管理された自然しかなく、所有権が隅々まで確定されてしまった場所である。郊外に行く程度では人間本来の生活を取り戻すことはできない。もはやどうやっても不可能だという悲観的結論のほうがもっともらしく思える。アジア主義とは地理的な「アジア」を重視する思想ではない。近代化によって自らのよって立つ場所をなくした絶望と、それでも座して滅びるのを待つわけにはいかない焦燥とが、未開で純朴であった「あの頃」に還ることを求めるのである。
 歴史上、様々な文明が栄枯盛衰を繰り返してきたが、各地の文化には、文明が持つ無国籍性、人を大地から引きはがそうとする力に抗するものを持っているように思われる。文化は、文明という悪性病原菌から自らを守る抗体のようなものであり続けてきた。いよいよ文明の害毒が体全体を侵そうとするときに、文化は「あの頃」に立ち返ることを要求し、文明を拒絶するのである。
 一方で昨今の戦闘的環境保護団体のように、漁師の網を切り裂いたり、武力攻撃を加えることで環境保全をなそうというのも、どこか設計主義的なにおいがして受け入れがたい。母なる大地、海と共生していこうという先人の知恵が、そこには感じられない。だがそうした「先人の知恵」は、文明的自己利益と暴力的自然回帰のはざまで、か細い動きとしてしか存在し得ていない。
 大概において、文化より文明のほうが強力であり、文化は敗北の道をたどらざるを得なくなる。しかし、そこに人がいる限り文化は滅びない。文化とは「義」であり、文明とは「利」である。「利」に弱いのも人間の偽らざる姿であるが、人には元来「利」を超えた価値、すなわち「義」を重んじる心が備わっている。文化は滅びない。「義」が滅びるときは、人間が滅びるときである。

(続く)

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