伝統と信仰 第十章 柳宗悦にとっての伝統


 第十章 柳宗悦にとっての伝統

 世界は悲しみに満ちている。しかし悲しみを感じるものは他者の悲しみを共に感じることができると言う点で愛おしく、また美しい。悲しみを、ただ悲惨であると感じ、それを追放あるいは隠蔽することだけを考えてきたのが現代の文明であるが、それは人間生活を貧しいものにした。物質的には豊かになったかもしれないが、人生の真実からはむしろ遠のいた。ちょうど社会が市場になったように、我々は国民としてではなく消費者として生きるようになってしまった。消費者に悲しみは必要ない。ただ商品に満たされればよいのである。

 人は誰でも嘆き、悲しみ、憤り、絶望の闇を抱えている。こうした人生の痛みは、単なる負の感情ではない。俗に「人は悲しいから人にやさしくなれる」と言うが、生きる悲しみや痛みは思わぬ感情的つながりを人に与えることがある。そうした人の心を軽視して、制度の構築、変革ばかりに興じていたのが近代であった。近代は卑小な自己を商品や制度で覆い隠そうとする。伝統は、ときにそうした商品や制度に縛られた生活の目覚ましになることがある。

 「伝統は意識して出来るものではない。生まれるものである」と言ったのは柳宗悦の息子柳宗理である(『柳宗理エッセイ』平凡社ライブラリー版66頁)。伝統は意識するものではなく、日本人の用途に真摯であれば必然的に生まれてくるという。強固な伝統美は、強固なゲマインシャフト的社会から生まれるものだという。一方で、ゲマインシャフト的社会が徐々に退潮しつつある現代では、どうすればよいのだろうか。ゲマインシャフト的社会を取り戻そうと努力することも必要になってくるのではないか。伝統は、先人の営みに触れることで甦るからだ。
 ゲマインシャフト的社会と信仰とは密接不可分なものである。「信仰の世界を只夢見る様な想像の世界だと思ふであらうか、否、信仰の世界よりも、より具像な世界を吾々は持つ事が出来ぬ」(柳宗悦「存在の宗教的意味」『柳宗悦全集』三巻9頁)。信仰は、死者との対話である。死者が甦り、再び現世に影響を与えることを信じない者は、伝統を信じることができない。死者は、その残した事績や言葉に触れることで、何度でも甦るのである。祖国の運命を悠久のものにする力が、伝統や信仰にはある。美とは、この伝統や信仰の結晶と言ってよい。そこには、武力や金力に負けぬ力がある。

 「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)。ここまでくると伝統は「他力」に似てくる。自力救済を重んじる現代社会とは異質な発想であるが、そこに美を認めるのである。
 個人の力などごく儚いものである。卑小な個が人生の荒波を超える際に、伝統は大きな助けとなる。伝統は古き良き生命の継承であって、現状維持でも過去の繰り返しでもない。古き良き生命が、自らの人生を支えてくれていることへの自覚である。柳は、「一切の偉大なる芸術は人生を離れて存在しない」と述べたが(「宗教家としてのロダン」『柳宗悦全集』一巻481頁)、それは芸術に限ったことではない。偉大なる事業は人生を離れて存在しない。即ち、伝統や信仰を離れて存在しないということである。人生は絶えず人間性の表現を追い求めている。敬虔な信仰を抜きにして、精神の深みを悟ることはできない。

 柳は、民芸や工芸の中に伝統が生活に息づいていた様を見た。
 手仕事を軽蔑する社会は、必ず奴隷制を持つ。手仕事を持たない社会は「現場」に発言力がなく、事情も知らないお上が、カネか権力の力で現場を従える。現代の会社員生活が息苦しくなってきているのは、機械化やIT化などの技術革新により手仕事が奪われたからだ。手仕事のない労働者は、替えのきく工場のラインの一部品に過ぎない。機械化は、労働から喜びや創意工夫を奪った。柳は、機械化の効能を全否定したわけではない。しかし伝統と生活が結びついていた民芸、工芸の世界が資本の論理に踏みにじられることに憤りを感じていた。

 「工藝の美は、傳統の美である。傳統に守られずして民衆に工藝の方向があり得たらうか。そこに見られる凡ての美は堆積せられた傳統の、驚くべき業だと云はねばならぬ。試みに一つの蟲を想へよ、その背後に、打ち續く傳統がなかつたら、あの驚嘆すべき本能があり得たらうか。其存在を支へるものは一つに傳統である。人には自由があると云ひ張るであらうか。だが私達には傳統を破壊する自由が與へられてゐるのではなく、傳統を活かす自由のみが許されてゐるのである。自由を反抗と解するのは淺な經驗に過ぎない。それが拘束に終らなかつた場合があらうか。個性よりも傳統が更に自由な奇蹟を示すのである。私達は自己より更に偉大なもののある事を信じていい。そうしてかかるものへの歸依に、始めて(ママ)眞の自己を見出す事を悟らねばならぬ。工藝の美はまざまざと此事を教へてくれる」(柳宗悦『民藝大鑑 第一巻』13頁。原文踊り字使用)。
 柳は伝統工芸の中に美を見出した。美とはすべてのものにあらかじめ備わっている。美がなければ醜もない。美の感覚があって初めて醜いという感覚が生まれる。美は醜をも包み込んでいる。善悪も同様である。性善説とは、すべてのものに善性が備わっているという考えだが、それはすべての人が善い人だというお人好しで世間知らずの考えではない。人は、必ず自己に備わっている善性を発揮するよう努めなければならないということである。善があって初めて悪が生まれる。美とか善と言うのは、すべての価値判断の根源を指す。これを想うとき、性悪説であるとか、人間はしょせん醜いものさと言う居直りがいかに陳腐で、現実的であるかのように装っているが人間の根源に何一つ踏み込んでいないことを知るであろう。

 福田恆存は伝統技術の継承に大いに関心を示した一人である。伝統技術の喪失は取り返しがつかないものであり(「伝統技術の保護に関し首相に訴ふ」『保守とは何か』文春学芸ライブラリー版、274頁)、「物と附合ひ、物から物を造る百姓や職人の生き方を唯々古めかしいものと軽視し、物を処理する商人や経営者の生き方にのみ近代化、合理化の方向を見出して来たのが間違ひの因」(同280頁)なのだという。柳宗悦には、例えば『手仕事の日本』に代表されるように、民芸を日本人の民族的、伝統的、風土的特徴の発露と見た。
 あまり触れられなかったが、農業も壮大な手仕事である。人の手で水をやり、雑草を抜き、虫を取り、収穫し、品種改良していく。それは少々機械化されたとしても、その手仕事の性質をなくしてしまうものではない。だが、農業においても株式会社化し、大規模化が進めば、手仕事の性質はいつしか忘れ去られてしまうに違いない。

 哲学と求道は不可分のものである。思想とは単純な論理的正しさを問うだけのものではなく、人格の陶冶、社会の道義的進歩と結びつかなくてはならない。
 柳は信仰や美に、乱れた世を清め美しくする力があると信じた。争いからは何も生まれない。人間が本来持っている情愛によって世を美しくできる。情愛は誰にも奪えないと考えた。
 伝統は自らの意志で選ぶことのできない、不可避の選択である。不可避の選択とは先人からの声にいやおうなく拘束されるということだ。伝統は人間の感性に染みついている。卑小な欲望でなく、感性に委ねたとき、それは先人の声に身をゆだねることである。

(続く)

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