伝統と信仰 第十一章 生活の場における伝統と信仰


 第十一章 生活の場における伝統と信仰

 死者はどこに行くのだろうか。天国だろうか。極楽浄土だろうか。それとも地獄だろうか。
我が国の土着的な信仰では、死者は遠いどこかに旅立ってしまうのではない。死んでも我が国土を離れず、故郷の山河や子孫の生業を見守っていると考える。とても興味深いことで、だとすれば我々の周りは死者であふれているに違いない。海があり、山があり、大地があり、人間がいて、死者がいて、それぞれが密接につながりあっている。原始的な信仰とはそれ以上の教義を持たない。それで充分なのだ。お盆には死者が帰って来ると言われるが、生活に息づく信仰は死者の存在にあふれている。死者への弔事は、大概死者に話しかけるような形で述べられる。死者の魂が天国や極楽と言った遠いどこかに行ってしまうと考えない世界観とも無縁ではないだろう。
 死者は静謐に宿る。産業は静謐を、活気がないと言って嫌う。静けさは人間に自然と自己の内面、即ち死者の面影を思い起こさせ、穏やかにさせる。明るく活気のある光景は、同時に何かに駆り立てられているようであり、常にイライラし、周囲ともぎくしゃくしてしまう。
 時々、我が国の信仰を、「葬式仏教」などと言い、葬式のみ関係する存在であると軽く考える人がいる。大きな間違いだと言ってよい。葬式に関われるということは、その社会に広く認知され、根付いている証とも言えるからだ。

 死者に囲まれ、見守られる生活には社会がある。死者を遠ざけてきた現代社会は、社会からも遠ざかってきた。社会の代わりに市場が大きくなり、便利になる反面、どこか生活が窮屈なものになってきた。
 第十章でも書いた通り、手仕事を軽蔑する社会は、現場に発言力がない社会である。人々が、各人の作業ごとに、分業という名で分断され、裁量の余地がなく、したがって協力する要素もない状態に陥っている。職場という小さな社会も解体され、今やそのなれの果てがあるだけとなってしまった。もちろんそれは資本主義の進展による分断もあるが、単純な経年劣化もある。昭和の東京オリンピックを契機に作られたインフラの老朽化が指摘されているが、会社組織も同様に劣化しており、それが労働を荒廃させている面もある。職場には精神の病がはびこり、機能しなくなってきている。職場に人間的つながりがなくなってきたことの証でもある。要するに職場にゲマインシャフトとしての要素がないことが、息苦しさの原因である。

 産業は、間違いなく生活のためにある。したがって、産業の為に生活が犠牲になるなど本末転倒ではないか。社会のための産業ではなく、産業のための社会になるがゆえに生活や生きざまを見失うのである。

 信仰などと言うと大げさなものに聞こえるかもしれないが、職人気質なども立派な信仰である。職人は神々への信仰が篤い場合も多い。自らの仕事が利益を超えた何かに奉仕する行為であるという自覚に基づくものであろう。
 信仰とは、「いかに生きるか」を追究する営みである。もちろん、ゲマインシャフト(共同社会)だけの社会などあり得ないし、ゲゼルシャフト(利益社会)だけの社会もあり得ない。企業は、資本にとっては利益追求のためにあるのだが、職人にとってはそれだけではない。だから、伝統技術や職人気質は絶やしてはならないのである。利益をもとにしたものであれば、すぐに復活させることができる。だが、利益を超えた価値は、一度絶えてしまうと復活させるのはとても難しい。

 人間社会のおおもとは、信仰と共同によって自然に結びついたことによる。社会契約論が誤っているのは、社会を利益による集まりとみなす点である。社会は自らの生命財産を守るためだけにできたものではない。

 明治時代の文明開化以降、信仰や伝統文化の影響力は小さくなる一方である。資本主義、ビジネス偏重の社会に抵抗する精神の働きは、ほぼ見られなくなってしまった。伝承されてしかるべき文化は、ごくわずかの例外を除き、とても貧しく痩せ細ったものになってしまった。しかし、我々の生命の高揚をもたらすものは、財産保護でもなく、資本による競争でもない。利害関係を超えた大きなものへの帰依にこそ、生活を形成する力が宿る。
 生活は生計ではない。パンのみに生くるものに非ずとよく言うが、生活とは共に生きていくことだ。相互の信頼を失った関係では、生活を営むことができない。豊かな生活とは何であろう。家族があり、日々の労働を手伝ってくれる隣人がいる生活。収穫をもたらす豊かな自然とともに生きる生活。そういったものが豊かなのであって、車やパソコンなどがある生活を豊かというのではない。何も車やパソコンが悪いわけではない。だが、それを所持しているかいないかは、豊かさとは何の関係もない。
 人々が会社員になることにより、子どもが両親の働く姿を間近で見られなくなった。親子の世界は会社によって分断された。生計が苦しいから、皆会社員になったのである。だが、会社員生活は、家族のつながりと言う財産を捨てることで成り立っている。

 近代以降、政治は君主と人民の慈愛による関係ではなく、人間の顔を失った権力の作用と反作用の応酬となり、人々は会社員になり会社に依存し、自ら生計を立てられなくなることで政治や経済政策にますます依存することになった。命令する側とされる側の区別は、封建制の撤廃によりなくなるかと思われていたが、実際はそうではなく、権力の作用と反作用は抜きがたく社会に存在し続けることとなった。

(続く)

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