伝統と信仰 第十二章 無政府主義者と伝統


 第十二章 無政府主義者と伝統

 単純な世間のしきたりさえ、それが硬直化すれば有害なものとなる。上司は部下に有無を言わさず従うことを要求するものだし、親は子に夢を追いかけることなど期待せず、慎まやかに一生を終えることを求める。早く職につけと促し、結婚しろと促し、家を買えと促し、子を作れと促すことでがんじがらめの凡人に仕立て上げようとする。妻は夫に安定した職に就くことを望み、仕事人間かつ時折家事を手伝ってくれるような人間に、夫を仕立て上げようとする。もちろん夫も妻を「妻」や「母親」という役割で縛ろうとする。世間のしきたりは一種の無知を奨励する。物質的利益の為に、人をそれ以外考えられないように仕立て上げようとする。とても悲しいことである。「家」とは豚を囲うことが語源となっており、家庭とは豚小屋のことだと書いたアナーキストがいるが、親子の情も夫婦の愛情も、すべてカネによってがんじがらめの利益に置き換えられてしまう息苦しさがある。

 伝統にはどこかアナーキーなところがある。
 近代国家はナショナリズムという近代思想で成り立っているが、ナショナリズムは国民の同質性の根拠として前近代に醸成された文化を活用する。すなわち近代思想はナショナリズムに潜む前近代に復讐されるのだ。近代思想の深刻な批判者にアナーキストがいる。アナーキズムは左翼思想とされるが、時に不思議なほど伝統への信頼を語る。近代国家亡き後の世界を、アナーキストは伝統と共同体を意識して語ることがあるのだ。
 大江健三郎は左翼的な論客とみられがちであり、それは必ずしも間違ってはいないのだが、大江には故郷である四国の山中が舞台となった小説も見られ、意外にも近代国家以前の村落共同体との親和性はないわけではない。『同時代ゲーム』や『万延元年のフットボール』などがそれに当る。ただし、私は『万延元年のフットボール』を読んだが、一言でいって、よくわからなかった。私の読解力がないせいかもしれないのであまり参考にはならないだろうが、念のため断っておきたい。
 クロポトキンはアナーキストとして有名だが、『相互扶助論』の中にスイスの農村などを引き合いに出して、相互扶助を論じる箇所がある(大杉栄訳『新版 相互扶助論』同時代社、第七章)。註にもつけたとおり、これが大杉栄によって訳出されたことを思えば、その妻伊藤野枝が、無政府主義を故郷の漁村に見出した「無政府の事実」のような論文も、こうした思想的影響で誕生したものと推測できる。
 大杉栄と親しかった人物に権藤成卿がいた。権藤は内田良平の思想的指南役であると同時に、無政府主義者大杉栄の友人でもあった。これを奇妙だと思う人は冷戦的発想にとらわれ続けている人であろう。日本を良くしていくことに右も左もないからである。明治二十年代の国粋主義を先導した一人である三宅雪嶺は、大逆事件に反発し、南北朝正閏論争で南朝の正統を訴え、天皇機関説の排撃に協力した。左右の往復は容易であるどころか、そうした感覚すらなく、ただ自分が正しいと思うことを論じていただけであろう。ただし大正時代ごろから冷戦思考が生まれるようになってきて、左右は引きはがされるようになってきた。内田良平は大杉栄が甘粕に殺害されたことを良きことだと言い、権藤に義絶されている。

 戦前日本において、右翼とされてきた人も左翼とされてきた人も、明治十年までに起こった士族の反乱がその思想的源流である。右も左も文明開化を掲げる政府に対する反逆者であって、武士道や王土王民を理想とし、はるか神武創業に復古しようという志を持ってきた。明治末から大正時代ごろにかけて共産主義がはびこるようになると、左翼は外国の共産主義勢力に妥協、服従するようになり、右翼は共産主義への対抗心から政府に対し妥協、服従するようになっていく。今日に至るまでこの構造はなかなか変わらないでいる。
 それでも、いわゆる左翼的人々において皇室がその魂に重要な位置を占めることは珍しくなかった。幸徳秋水や小林多喜二は仁徳天皇の統治を理想とし、賀川豊彦や加藤勘十、浅沼稲次郎は皇室を崇敬するところ大であった。
 あるいは時代を遡って、山鹿素行や本居宣長、山県大弐、高山彦九郎、大塩平八郎、吉田松陰、橘曙覧など日本人の魂に触れた人物を思いつくままに挙げてみても、彼らが当時の政府である江戸幕府にとって都合のよい人物ではなく、時代に反逆した人物であることが容易にわかる。反逆性のない毒にも薬にもならない思想は、後の世に残るものではない。

 もともと、政府は必ずしも公共性を代表しているとは言い切れない側面がある。政府は政府のために動く。人間社会は制度ではない。社会は、人々が「共に生きる」ことで作り出される生き物のような存在だ。政府あるいは官僚機構が冷たい制度的側面を持つのに対し、社会は「共同体」とか「ふるさと」と呼ばれるものに近い。共同体は、その歴史性により国家に昇華するが、政府はいつまでも政府のままである。
 共同体がゲマインシャフトと呼ばれるのと対比され、利益によって結びつく組織をゲゼルシャフトと呼ぶ。政府とか会社などの組織は、利益によって人々を統合している側面がある。帰属心によって人々を統合する国家=共同体と、政府は別物なのだ。
 政府や会社などに自らの生き方をゆだねてはならない。自分の魂、感情、生き方を誰かに教えてもらおうなどと思ってはならない。当たり前だと思うかもしれない。だが、油断していると、人は地位や金銭状況に意外にも囚われてしまうものだ。

 喜怒哀楽の感情に政府は介在しない。喜怒哀楽には低次元のものもあるが、そのもっとも高尚なものは必ず倫理的である。人と人とのつながりの中に崇高な感情が生まれるのだ。これはどんな人づきあいが苦手な人にも与えられた能力であろう。地位や金銭といった外的なものは人間を変えようとする。哀しいかな、人は弱きもので、そうしたものにごく簡単に取り込まれてしまう。だが、そうしたものに自分を支配されることを嫌う誇りや羞恥心もまた、人間に備わっている。
 人間性の最も基本となるものは、人々が日々生きる中で感じる喜び、悲しみ、怒り、そういった感情だろう。このような感情は本人にしかわからないものではなく、他の人々とも分かち合うことができる、優れて社会的なものである。人間の真実は厚化粧した公的な付き合いの中からは生まれない。虚栄のないところに人間の素朴な感情を見て取った人は、無政府主義者になっていった。
政治や社会運動は、人々を貧者であるとか被害者であるというように一つの集団にまとめたがり、その集団の救済を模索する。そうした動きに全く価値がないと言うつもりはない。だが、そうやって人間を集団としたときに、個々が持つ感情とそれへの共感が置き去りにされることがあることは注意しておくべきことであろう。

 無政府主義者でもあった石川三四郎は、以下のような一見奇妙な論理で平等を主張した。
 人間を一個の肉塊とみなせば、強健な人もあり、軟弱な人もあり、不平等である。翻って、王陽明の言う良知ともいうべき心霊を無限の価値とすれば、無限なのだから計量することなどできず、したがって平等であり自由なのだという(「虚無の霊光」『近代日本思想体系16 石川三四郎集』25頁)。
 とても奇妙な理屈に感じるが、「心霊」を人の「感性」と捉えれば、教えられるところの多い思想である。人の感性は単純な比較をすることができない。したがって他者と単純に優劣を比較できず、共に併存することになるのである。
 感情・感性と欲望は異なる。感情・感性は社会に向かって開かれているが、欲望は自身に向かっている。小さな欲望に身を焼かれるよりも、感性に託す生き方に、人はあこがれを抱くものではないだろうか。

 西郷隆盛が「敬天愛人」と言ったとき、大いなるものへの畏れと人間性への慈しみを語っていたに違いない。大いなるものへの畏れを抱くこともまた人間に備わった感情であり、共同体に裏打ちされた道徳の先に「天」がある。
 あるがままの心を見つめ、それを高めていこうとすれば、必ず共同性に行きつく。「道」とか「霊性」とか、人によって呼び方は違うが、はるか昔から人々が考え、後の世代に引き継いできた精神に触れざるを得ない。

 きちんと調べたわけではないが、あの東日本大震災の際に国民の傷ついたこころに働きかけたのは天皇陛下が最初ではなかったか。政府が被災者の救護対策や原発問題において拙い対応を繰り返す中、陛下はビデオメッセージを出して「国民のこころ」を慮られた。このとき、もちろん天皇は官僚機構の一角ではなかった。天皇は政府を超越して国民のこころとつながった。天皇は国民の高尚な倫理的感情ともつながっているがゆえに、政府の枠には収まらない部分がある。

 東日本大震災の局限化であっても、日本人はマナーを守り、助け合いの心が見られたと言われる。だが、大規模災害の後ではどこでもそのような現象は見られる。外国の略奪などの事例は針小棒大に語られているし、逆に東日本大震災や阪神大震災の時に、一儲けしてやろうと法外な値段で食料を売りつけようとした輩も出て、秩序を乱したことだってある。
危機の時、人々は意外にも助け合い、お互いを思いやることができる。このことに無政府主義の可能性を見出す者さえいるくらいなのである。

 私は無政府主義者ではない。ゲマインシャフトを重んじ、ゲゼルシャフトの越権を憎むが、人々が生きていくうえで、ゲゼルシャフト的側面なしにまとまると考えるのは夢想的である。外交や軍事は、間違いなく組織における利益を追求する側面がある。政府による恩恵を、明らかに共同体も受けている。と言うより、政府なしに共同体が維持できると思うほうが間違いなのだ。ただそれは、共同体、すなわち歴史、伝統に対する毀損、無遠慮、越権、横暴、無頓着な行為を野放しにすることとは違うと思うだけだ。

(続く)

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