伝統と信仰 第十三章 維新者の信條


 第十三章 維新者の信條

 思想する者にとって、概説的知識など入り口としての効能しか持たない。概説的知識など全く信用しない。思想は、思想家の残した言葉を、己の感性と照らし合わせることでしかわからない。
 人の心に定規をあてるように、あなたは右翼、あなたは左翼とみなすことなど意味のないことである。思想はいつも概説的知識を突き抜けたところで見出されるのを待っている。例えば政府を超えた価値を信じないナショナリズムなどただの権力への追従でしかないし、統合、連帯、信頼、相互扶助を求めないアナーキズムは弱肉強食でしかない。人間の魂から出た言葉は、概説的知識など突き抜けたところで人の心に働きかける。

 吉田松陰は、高杉晋作や久坂玄瑞らと対立したとき、「僕は忠義をなすつもり、諸友らは功業をなすつもり」と言った。祖国に対する燃え立つ魂は「功業」などと比べたらごくちっぽけなものだ。松陰は変革などしたかったのではない。ただ己の魂に働きかける言葉に突き動かされたのである。
 魂への信頼は陽明学的教養によるものと思われるが、儒学の教典である四書五経には、政治書が一つもない。先人の心を残す詩もあれば、先人の行いを残す歴史書もある。しかし小手先の統治について記したものは一つもない。四書五経は師の言行録や、人間の心の動きを収めたものであり、読む者の魂を問う書でもある。陽明学の唱える知行合一とは、知ることと行うことは不可分のものだということだが、それは知ることも行うことも、ともに人の魂に働きかけることであり、自らの魂に働きかける声を聴くことでもあるからではないだろうか。
 岡倉天心は、「霊性は魂に燃える炎」だと言ったという。魂とは大いなる価値のことであり、利害関係を超えたものだ。政府や市場は、人の魂を規定できない。政府や市場は、利害関係で人を誘導することはできるが、心まで支配することはできない。

 『論語』の有名な一節に「子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋遠方より来る有り、また楽しからずや。人知らずして恨みず、また君子ならずや」というものがある。学んだことが自らの血となり肉となることはなんて喜ばしいことか。人に知られていないからといって恨んだりしない人が君子ではないか、という最初と最後の一節はわかる。だが真ん中の説で友達が遠くから訪ねてくるのは楽しいですねとは当たり前すぎるのではないか。遠方から来る「朋」とはいったい誰なのだろうか。
 本を読んでいると、著者の言葉によっていままでもやもやとしていた感性が何かに導かれるように確固たるものになっていくことを感じることがある。そんなとき、著者が目の前に現れてきて教えを受けているかのような気持ちになることがある。その師は、場所はおろか時代をも同じくしていなくとも、人は言葉で誰かとつながることができる。それこそが「朋」が遠方よりやってきた瞬間なのだろう。だとすれば、最後の、人が自分のことを知らないからと言って恨まないのが君子ではないかという章句にもまた違った解釈が生まれえるのではないか。つまり今の自分が誰からの理解も得られず不遇だったとしても、自らの考えを言葉にさえ残しておけば、遠く離れた誰かが、百年先、千年先の誰かが自らの価値を拾い上げてくれるかもしれない。だから恨まないのである。その可能性だけを信じて世俗の栄達よりも己の言葉を残し続ける人間。それはまさしく「君子」ではないだろうか。人を相手にせず天を相手にする人間、それが君子である。このときの「天」とは、絶対的な超越神のようであり、言葉でつながった「誰か」でもある。だから先人に学ぶのであり、人の熱くたぎる魂や真摯な言葉は古びないのである。

 そんな熱い魂から出た真摯な言葉を収めた本の一つに、影山正治の『維新者の信條』がある。影山は「維新者は、その本質に於て何よりも絶対なる国体信仰の把持者でなければならない。/如何に維新を論じやうとも、不動の国体信仰に徹せざるものは遂に維新者たることを得ない。/思想も理論も学も、破壊も建設も闘争も、政治も経済も文化も、すべてはこの信仰に根ざしてのみ考へられ、戦はれ、実現されなくてはならない。/国体は絶対に手段化さるべきではない。戦争遂行のための維新、資本主義否定のための維新、国民生活安定のための維新ではない。国体を明らかにするための維新、国体を実現するための維新であり、その結果として、戦争の遂行も可能となり、資本主義も否定され、国民生活も安定されて行くのだ。/維新とは単なる組織機構の変革ではない。神代復興であり、国体復帰である。この意味における世界の変革、価値の転換である。」という(『増補版 維新者の信條』69頁。/は改行。旧字を新字に改めた)。国体に対する信仰を強調している。
 影山は「維新とは(中略)国体復帰である」と言っているように、その言葉からすでに現在は国体が失われてしまっている時代であるという認識が強い。影山にとって国体は天皇とか皇室だけではなく、明らかに皇室を中心としたはるか古代の理想的社会を国体と呼び、それへの復古を理想としている。
 また、「資本主義の罪悪は、政治的・経済的・社会的に見て多岐多端であるが、その最大の罪悪は、人の心より神と詩を喪失せしめた点にある。/そこでは宗教も詩も一切が金に換算される。金に換算されざるものは、すべて無価値、無用とされる。かかる資本主義精神の、日本を毒し人類を害したことは想像以上に深刻である。この意味に於て、維新とは失はれたる詩と信仰の再建でもある」(同83頁)という。影山は共産主義と資本主義を同根とみなし、ともに人々を無間地獄にいざなうものだという理解でいた。
 交換可能なものではなく、永遠に続くものへの帰依が主張されている。

 注意しなくてはならないことは、影山にとって「維新」は体制の変革ですらないということである。人は体制の変革を簡単に叫びすぎる。「あの政策が通れば日本は変わる」「改革を止めるな」「成長戦略を必ず実行する」というように。そういえば「維新」と称して「グレートリセット」を主張する政治団体も現代には存在する。しかし、それは体制に、政局に、手段に依存する態度である。真の日本国民の覚醒は、そのような態度からは生まれないのである。
 「維新は翼賛なり、まつろひなり、祈りなり、行なり。断じて民意の強行や政策の断行にあらざるなり。血と涙による祈りのまこと大御心に貫通して、岩戸内より一歩開かれなば、倒幕の密勅降下するなり。維新の大詔渙発するなり。その時に至るまで何百何千万の石を積むなり。我ら貧しけれどもその石の小さき一つとならむとするなり」(同352頁)。維新は世の革新である以上に己の原点回帰でなければならない。維新を信じることは己の姿勢を問うことなのである。
 制度を論じるものは必ずスローガンで人を煽情しようとする。だが、スローガンなんかでは人は変わらない。表面上動いたふりをするだけである。真の自覚がなく、制度だけ変更して何かをなし得たかのように満足しているようでは駄目なのである。
 本当の問題は、制度や構造といった無機質なものにあるのではなく、人間そのものにある。人間の在り方を問うことなしに現代社会の問題を抉り出すことなどできない。制度の変更を主張すれば、それは「わかったつもり」になるかもしれないが、制度を変えるだけでは国家が真に健康を取り戻すことはない。

 三島由紀夫は「反革命宣言」で「日本の文化・歴史・傳統」を護った上で、あらゆる共産主義に反対することを宣言した。その上で、この宣言を「われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、日本の國土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千萬人といへども我往かんの気概を以て、革命大衆の醜虜に當らなければならぬ。民衆の罵詈讒謗、嘲弄、挑発、をものともせず、彼らの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに當らなければならぬ。/われわれは日本の美の傳統を體現する者である。」と締めくくっている(『三島由紀夫評論全集』第三巻503頁。/は改行)。

 三島の悲壮な決意を感じさせる文章であるが、それよりも三島があくまでも「日本の文化・歴史・傳統」の側に立った人物であり、「日本精神の覚醒」を目的としていたことは、もう一度考え直すきっかけを与えてくれるものだろう。
 なぜなら、現在はあの頃と違い日本が共産主義化する可能性はなくなったといってよい。しかし「日本の文化・歴史・傳統」や「日本精神」があの頃よりわれわれの身近な存在になったかといえば、必ずしもそうではないからだ。共産主義化する脅威がなくなったのはあくまでも共産主義国家の自滅によるものであり、「日本精神」が勝利したわけではない。共産主義が抜けた空白は、「資本主義」という新たなイデオロギーにより満たされようとしている。三島が闘うべきと考えた「水際」は、日本の国境ではなかった。日本の国境は守られた。だが「日本人の魂の防波堤」はどうだろうか。経済発展に毒されて、「魂の防波堤」はどこかに置き忘れてしまったのだろうか。

 本を読むことは死者との出会いである。何の脈絡もないような先人の言葉がふとした瞬間に繋がりあう。あるいは、ある言葉から無限に先人の叡智が広がっていく。それは思いがけず朋に会うような楽しさと、己の生き方を突き付けられる厳しさを同時に併せ持っている。

(続く)

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