伝統と信仰 第十四章 醜の御楯


 第十四章 醜の御楯

 「ひとはつねに自分にとって切実なことのみを語らねばならぬ。私は私自身に見えることしか見えない。君がもし、未来の世界についてかくあるべきと確信がもてるなら、そのような世界は、君にとって、生きる価値のない世界であることを知るがよい。もし未来が光輝あるものでなければならないと決まっていたら、君はいますぐ絶望するしかない。一寸先は闇である。だから生きるに値するのである。現実を解釈してはならない。君の隣人が善意でなかったことを怒る前に、なぜ君は自分の悪意に気が付かないか。自分の失敗を社会のせいにする前に、なぜ君は、成功だけは自分のせいにしたがる自分の弱さに気がつかないか。」(西尾幹二『ヨーロッパの個人主義』まえがき、3頁。)

 私にとって切実なことは、日本人の心の問題である。経済成長がかくも日本人の心をむしばみ、日本社会を堕落させてしまったことに対するやるせなさである。「インバウンド」とか「爆買い」と言って誤魔化しているが、いまや日本は、支那人の購買力に依存し、彼らの無尽蔵な欲望を満たすことでかろうじて経済を維持しているのである。その意味では、「Tokyo」とか「Osaka」と言った経済圏は、意外にしぶとくその命脈を保つのかもしれない。だが、「日本」はどうだろうか。日本の伝統や、共同体や、民族性はどうだろうか。
 日本人はもう、伝統や先例、因習を頑なに守っていこうという意志を持たない。生活の便利さの追求は世を挙げて行われ、信仰心も薄く、共同体意識も弱い。微弱になった信仰の代わりに、数々の電化製品やレジャーが入り込み、便利ならそれでよし、楽しければそれでよしとなり、国はただの市場と化した。市場は、文化も伝統も民族性も破壊しながら、カネは天下の回りものとばかりに、今日も空転し続けている。
 TPPは締結され、外国人技能実習期間は3年から5年に伸ばされようとしている。人身売買ではない、「実習」なのだ。移民ではない、「外国人労働者」なのだ。言葉の言いかえは詭弁なだけでなく、自らをもだます欺瞞である。

 自由主義と社会主義と保守主義。この三者が牽制しあい、ある一方が強くなると、残り二者が結託して抵抗するという。共産主義勢力の脅威には、自由主義と保守主義が結びついた。新自由主義、グローバリズムの脅威には、社会主義と保守主義が結びつくのだろうか。少なくとも私は、まだ外国の共産主義勢力や、硬直化したイデオロギーが到来する前の、純粋にただ貧富の格差や商人の専横に憤っていた、社会主義者とも呼びづらい一群の人々を好ましく思う。彼等は日本のために憤ったのである。

 「特攻隊員の犠牲のおかげで今の経済発展がある」と言われることがある。坂口安吾ではないが、「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」と叫びたくなる。特攻隊員は、家族、故郷、生まれ育った自然のために命を散らしたのであって、その故郷を荒廃させ、自然をショッピングモールに変えた我々の堕落した生活なんぞのために命を散らせたのではない。特攻隊員は、我々が豚のように肥え太るために命を散らせたのではない。我々はむしろ、祖国のために命を懸けた彼らを裏切ることで日々生きている。我々の豚の生活を一日送ることが即特攻隊員への裏切りである。

 靖国神社は倫理的施設だと言った人がいた。私もそう思う。確かに国家神道が登場したことでもともとあった神社が閉鎖を余儀なくされた例もあった。だがそれは、国家神道の代表的施設の一つである靖国神社や護国神社に信仰性がないというわけではない。総理大臣などの靖国参拝にも絡む問題なので念のため行っておくが、靖国神社に宗教性があるかどうかは何とも言い難い。国民儀礼とも言えるからだ。しかし間違いなく信仰性はある。信仰とは先人の声を聴き、己の生き様を省みることである。その意味で靖国神社はまさしく信仰的な施設である。靖国神社はむしろ「○○が叶う」と言った現世利益を売りにした神社などよりもはるかに信仰的とさえ言えるのかもしれない。靖国神社への参拝は現世利益と言うよりも、むしろ現世否定と言ってもよい。靖国神社に眠る英霊より祖国に献身した人間は、今生きている人間には一人もいないからだ。祖国に献身した生き様を突き付けられ、欲望に塗れただらしない自らの生活を恥ずかしく思い、せめて一つだけでも英霊に恥じぬ行いをしようと努めようと決意する場所が靖国神社なのである。

 日本は本土決戦を行わず敗戦という選択をした。これは皇室の国民とともにある姿勢、国民の犠牲を避けようとされる叡慮、国民と日本文化さえ残っていれば、日本は必ず甦るという確信と、さまざまな思いの果てに決断されたであろうことは疑いようがない。さっさと亡命してしまう外国の王などよりもはるかに偉大で崇高な態度であった。しかし物事には利点欠点裏表があるものであり、やはり本土決戦を行わないことによって、「生き伸びられればそれでよい」という観念を植え付けはしなかったか。醜の御楯となる誇りは忘れ去られてしまい、いきなりその感覚を取り戻すのは難しくなってしまった。少なくともその感覚を持てない自分を恥じ入ることから始めなくてはならない。

(続く)

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