第十五章 日本人にとっての信仰
伝統とは連続性である。伝統は、いつも変化しているにもかかわらず決して全面的に崩れない、社会の羅針盤である。社会が混迷のうちにある時に、生き残る術を提示してくれる一筋の光のようなものである。伝統とは信仰のことであり、文化のことである。伝統を考えるということは、国家について考えるということである。ただしこの時の国家とは、政局のことではない。むしろ人間について考えるというほうに近い。
昔から続くものの価値を認めず、文化を軽視するのは、なにも近年始まったことではなく、日本史の中で繰り返されてきた。だが、そうやって新しさばかり追究するところに、本当の新しさはありえない。なぜなら、彼らの視野には「今」しかないからだ。来年になったら古くなるようなものは、本当は「今」だって新しくないのだ。そんなものよりは、何年経っても懐かしまれ、惜しまれるもののほうが、よっぽど新しいのである。昔から続くものを壊そうとするのは、無駄骨を折ることにしかならないだろう。自分たちの世に問うものが本当に長年問われるべきものであったなら、古さや新しさなどもはやどうでもよいはずだ。
日本人が日本の伝統、信仰や文化を知らないでどうするのか。次代に伝えず生きていてよいのか。日本の美質を称え、欠点を改善していくことは日本人に課せられた使命ではないのか。「日本」ということそのものが思想に結びつくということは、日本の過去、現在、未来の出来事やものを説明できるようになるということではない。日本史を知識的に学んだだけでは日本史が人格を構成するまでには至らない。日本人がこれまで考えてきた考え方、発想が自らの発想と分かちがたく結びついていることを自覚し、その中で生きていくことを自認して初めて、自己の思想は深まるのである。
伝統とは運命とか宿命と言ったものとは違う。すべての人が生まれ育った伝統の中で発想し、伝統の中で生きていると言うことは、伝統を呪縛かなにかのように捉えることではない。伝統を伝統から来るものであると認識することによって、新たな発想もまた生まれえるだろう。すべての人間が伝統をもとに発想しているということが教えるのは、文化を離れた無国籍の「人間」などと言うものは決して存在しないということだけである。
日本人にとって、天皇が公共のために存在し、国民のために祈り、歴史と伝統を体現する存在だということは、自明のことである。したがって仮にそれを拒否しようとする人がいたとしても、それは信仰を拒否しようとする段階で必ず信仰に囚われることになる。皇室に関するあらゆる論争が神学論争になっていくのはそのためだ。
改めて考えれば、日本人にとって、天皇陛下が日々国民の安寧を祈られているということはとても大事なことであり、かつとても不思議なことだ。アメリカ大統領も支那の国家主席も、北朝鮮の将軍サマも欧州の王室もおそらく国民の安寧を祈らないだろう。バチカン市国のローマ教皇は祈るかもしれないが、バチカンの市民というよりはキリストの為に祈るのであり、カトリック教徒の為に発言するのである。天皇陛下が祭祀をされるということは、日本の共同性の証であり、得難い行為であろう。
天皇はその歴史の早い時期に臣下に世俗的権力を譲り、無私の民族を結びつける存在となった。天皇は民族を結びつけると同時に、神道と仏教、儒教を結びつける鍵ともなった。私は、「権威と権力の分立」などという、わかったような言葉で天皇を語るわけにはいかないと思っている。有事の際には天皇が権力的存在になることもまた、日本の歴史に見られたからである。天皇を失えば、日本は全体としての個性を失い、世界文明に貢献する根幹が荒廃してしまう。天皇は日本のいのちであり、「日本」という信仰の祭主と言えるのではないか。
天皇親政とは、西洋の絶対君主や、革命家による独裁国家とは違い、公義輿論と歴史と伝統の尊重による統治である。あらゆる場面における日本人の意思決定は、良くも悪くも独裁性に欠ける。天皇親政とは祭主による広い意味での祭政一致の統治のことだ。ここでいう祭りごととは、単純な宗教儀式であることもあれば、日本人が皇室という中心を奉じるこころのことでもある。
日本人は信仰心が薄いという的外れな意見がある。もっとも、「戦後日本人」に限定すればそれは当たっている面もないではないから話は複雑だが、いずれにしても日本人の精神生活と信仰は切っても切れない関係にある。言葉一つとっても、日本は言霊と呼び、言葉に魂が宿ると考えられてきた。そしてその言葉を和歌として紡いできた。人の心に宿るさまざまな感情の流れが言葉となって出てきた瞬間、天地をも動かし、神をも揺さぶる力を持つ。人は言葉によって、過去、未来、さまざまな人、ものとつながることができる。言葉こそ伝統であり、言葉こそ魂だ。してみれば人の魂が他の人の魂を揺さぶることができるのは、至極当然ではないだろうか。
個人の生命は有限である。しかし、悠久の大義のために全身全霊を尽くせば、その魂は永遠に語り継がれることになる。国家には、そういう信仰が不可欠である。それこそが国家に求心力を持たせる力となる。政治経済にばかり関心を向けて、こうした信仰、文化の側面を軽視すれば、国家は単なる大衆の集合体となり、各人の溌剌とした生命力を発揮する場所ではなくなってしまう。
共同体が解体され、大衆の集合体になってしまうと、露骨な競争社会となり、相互不信がひどくなり、カネと暴力でのみ支配する世の中になる。利己主義の蔓延と孤立化が社会を堕落させ、活力を削ぐことになる。皮肉な言い方をすれば、資本主義はそうした社会を到来させることに大いに貢献したと言えるだろう。
(続く)