権藤成卿は以下のように書いている。
富力の集中により、貧富の懸隔が甚しくなり、従って社会的不安とともに人心は動揺し、大戦前においてすでに萌芽せる左傾思想は、ほとんど全国に瀰漫するに至った。この頃より社会事業なるものが興って来たが、この社会事業に投ずる経費の増加と、社会の非違者と認むる者及び失業者の増加との比例を見るに、後者は前者の約二倍になっている奇現象を生じ、一部の人は、社会事業は社会の非違者をものとさえ、立論するに至ったのである。―かつてかのビスマークでさえ「国は第一にその人民の弱者の幸福に注意するの義務がある」と論じたのであるが、我が国のドイツ崇拝者として権要に居る人たちで、これ等の点に注意せしものが幾人あるであろうか。(『血盟団事件五・一五事件二・二六事件その後に来るもの』書肆心水社編『権藤成卿批評集 行き詰まりの時代経験と自治の思想』35頁)
私が権藤のこの言葉を書き留めておかなければならないと思ったのは、権藤が「社会事業」、おそらく弱者救済の事業だと思われるが、その弱者救済事業が増えてきているにもかかわらず、それ以上に失業者等が増えていることに注目しているからである。
政治は弱者の救済を旨として行われなければならない。だがときに社会福祉が弱肉強食の経済競争の隠れ蓑になる場合がある。現代で言えば、社会保障を「セーフティネット」として位置付ける議論がそれだ。安倍首相が良く言う「再チャレンジ」もそれに含んでよかろう。要するに強烈な経済的弱肉強食政策への批判をかわすために社会福祉の充実を求めるのであって、貧富の格差が生まれた根本原因を正そうともしないし、かえって格差が広がることにも何の痛痒も感じていないのである。
権藤は先に引用した事態を引き起こした原因に国民精神の弛緩や、宗教の堕落、貨幣万能的発想の蔓延に見ているようであるが、問題の根本原因を見据える目を持たずして、弥縫策的な態度に終始すれば、いかなる政策であれうまくいくことはない。