『絶望的楽観主義ニッポン』より


 野坂昭如が亡くなった。深い思い入れがあった作家ではなかったが、亡くなったとの報道を目にしたとき、ふと『絶望的楽観主義ニッポン』を読んでいたことを思い出した。以下そこからの抜き書きである。

 「タブーのない世の中は自由で、生き易いかもしれないが、「原罪」について思うことのない者が、タブーを失えば、結局、自分の生を何に確かめていいか判らない。自分という存在そのものが悪であるという考え方に、普遍性があるかないか、ぼくには判らないが、以前は、いちばん悪い形で、国家が、あれこれ規制を持ち出し、これに従順でなければ非国民と、決めつけた。それぞれが素直にかえりみれば、自分は非国民に近いと悩んだ。(中略)人間を超えた存在に対し畏れる気持が、どの民族にもある。そして、この根源的な罪の意識、畏れをあえて超えるものが、「恋」だった。(中略)「豊かな」文明とか称せられるかりそめの充足により、日本人は「恋」を失った。」(120~121頁)

 「アメリカの強制による米余り現象に、当初こそ、少し戸惑ったが、たちまち慣れてしまって、文明を摂り入れるのならけっこうだが、農、ひいては文化を殺した。日本の堕落は、このあたりから顕在化して来た。一方では高度成長、豊かな国めざして一直線、あげく、日本人の心は蝕まれた。拠って立つ基盤を失い、当節の荒廃の大本は、農、土の恵みをおろそかにしたことに因る。」(131頁)

 「日本に市場開放を求めながら、アメリカは、日本のミカン一個たりとも輸入を認めていない。かの地でさえジャンクフードとみなされている、ファーストフード屋が日本に氾濫、伝統的日本食は、今や、家庭から放逐されつつある。」(151頁)

 「国全体のレベルが低下、モラルが失せ、秩序が乱れ、ひいては国家の威信が問われるなどとはいわない。現大統領の、歴史上例をみない性的醜聞も、それほどのこともなくおさまる。ただ、ソ連崩壊、資本主義、民主社会、人権尊重の社会こそ正しかったと有頂天に、アメリカがなるのは自由だが、日本がこれに同調するいわれはない。
 今、並べた項目は、すべて上に「アメリカの」がつく。決して、そのまま世界に通用する普遍性を持つものではないし、ましてや、その掲げる理想まことにけっこうだが、「人権侵害」を理由に、他国への干渉は許されない。
 アメリカの唱える「人権」を尊重していたら、国民の大半が飢え死にしてしまう国だってある。「差別」をなくすべく強権を発動するなら、民族相争う事態だって興る。」(251頁)

 思想を多数決で考えたり、敵味方で考えると、得るものが少なくなる。本はその著者の言葉に向き合ってこそ深みが出る。西尾幹二は言う。「本の中に立ち止まって、それが自分に突き刺さってくるような経験をせよ。/自分の弱点を洗いざらい見抜かれて、背筋の寒くなるような体験をしながら本を読め。/あるいは逆に、まるで自分のことを語ってくれているみたいだと、自分の意を代弁してくれている著者の言葉に思わず喜びが込み上げてくるような読み方をせよ。/すなわち、どんな本でもいい、ともかく本の中の一語一語が自分に関わってくるような本とのつきあい方を身につけることが、まず何をおいても大切な人生の智恵の一つである。/自分がいないような読み方だけはしてはならない。」(『男子、一生の問題』220~221頁、/は改行)。

 反支那、反韓国だけではあまりにも底が浅すぎる。そんな予定調和のマンネリでは心が震えない。守ろうとする文化的価値、そしてあるべき政治の在り方を模索することこそ日本人であることに誇りを持つ人間の生き方ではないのか。自民党の応援団に過ぎない連中が多すぎる。自民党は保守政党である。ただし戦後日本を保守する存在である。アメリカに依存し、自国の価値観、主張を持たず、自由と民主主義は普遍的価値なんて言っている。商売に興じて、人々の生活を踏みにじることに頓着しない。外国の方式、もっと言えばアメリカの流行を取り入れる耳の速さだけは持ち合わせ、それが彼らの保身の術となっている。
 言論は政治演説ではない、と私は思う。保田与重郎は「紙無ケレバ、土ニ書カン。空ニモ書カン」と言った。それは比喩ではない。頭に浮かぶ言葉を書き留めておかなければ、どこかに行ってしまう。それを惜しむのである。頭に浮かぶ言葉は天からの啓示であって、後から思い出そうと思っても書き留めることができない。

 小林秀雄は「僕が、はじめてランポオに、出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった」(ランポオⅢ)と書いている。
 私にとっては陸羯南との出会いがそうであった。大学二年生のころであった。神保町で、表にワゴンセールで出ていたのが『日本の名著』の陸羯南、三宅雪嶺であった。600円だったと思う。値段など関係なく、本との出会いは私を打ちのめした。100年以上前に書かれた書物が、私に語りかけたのである。日本には使命はないのか。弱肉強食の国際社会の中で何を守り抜くのか。そんな声を聴いたような気がしたのである。

 野坂の話からそれてしまったが、私と氏は意見が異なるところが多いと思う。しかしそんなこととは無関係に働きかけてくる言葉はある。そんな声をこれからも聴き続けていく。

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