陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 上


第一部 陸羯南にとっての「自由」

 明治維新により、過去の政治体制が崩壊した時、政治思想もまた混迷の中に投げ込まれた。如何なる政治倫理を以て政治および経済を位置付けるか、明治期にはそれが問われていたのである。特に、「日本」を見直そうという国粋主義者にとって、その問いが重かったことは容易に想像できる。政治体制は既に変革され、政治倫理も今までと同じではいられない。だがそれは西洋から流入してくる近代政治思想を無条件に受け入れればよいというものではなかった。近代西洋思想が耶蘇教と切り離して考えることはできないものであるからこそ、やはり日本流の「答え」を必要としたのである。
 明治維新とは日本の資本主義化だったといってもよい。それを支える「自由」という思想をいかなる理由で裏付けていくか。その役割を担った一人に、陸羯南がいる。
 陸羯南は明治二十年代の国粋主義の流れの中心人物の一人である。明治二十年代の国粋主義とは、文明開化の風潮に反発し、日本は日本の美質を育成、発展させていけばよい、というものであった。こうした風潮の中で、富士山(志賀重昂)や忠臣蔵(福本日南)、仏教美術(岡倉天心)、日本画(岡倉天心・狩野芳崖)、短歌や俳句(正岡子規)などが見直されることになった。だが、陸がいつの間にか受け持つことになった政治思想の分野では、対抗すべき「日本」というものが、先ほどの事情によりあてにならないものであった。陸はこの困難な命題を如何に対し如何なる答えを出したのであろうか。
 そもそも西洋文明を受け入れるということは、西洋文化を受け入れるということであった。「和魂洋才」などという器用なまねはできるはずもなかった。いや、蒸気機関車やガス灯といったことならできたかもしれない。だが、陸が対峙したのは「自由」という「洋魂」であった。「和魂をもつて洋魂をとらへようとして、はじめて日本の近代化は軌道に乗りうる」(福田恆存「伝統に対する心構」『保守とは何か』文春学芸ライブラリー版、205頁)のだとすれば、それをしようとした人物は、私には陸羯南をその筆頭に挙げなければならないように思えてならないのである。
 日本は、帝国主義で生き残るために近代思想を経なければならなかった。だが、安易に近代思想を導入してしまえば、日本の伝統が破壊される。しかも、先例などほぼないのである。
三宅雪嶺の『真善美日本人』は、「日本人とは何ぞや。これ何らの問いぞ。問う者すでに日本人たり」という印象的な一文で始まる。「日本人とは何ぞや。日本の人なり。日本の人とは何ぞや。吾れ答ふる所以を知る、吾れ答ふる所以を忘る。日本人、日本の人、黙して想へば其の意義ありありとして幻像のごとく眼前にちらつけども、口を開けば忽焉として影を失ふ」(『日本の名著 陸羯南 三宅雪嶺』287頁)。日本人とは何か、それは自明なようであるが、いざ説明しようとするとうまく表現できない。そんな戸惑いに似た感覚をまず表明するのである。その中で、三宅は日本人とは単に日本国籍を持つ人と言うだけではなく、長い「日本」と言う国家の歴史の一分子たることを以て「日本人」であると規定していくのであるが、そもそもその「日本の歴史」そのものが自意識たりうるのかが問われなければならなかった。なぜなら日本はすでに「文明開化」という大きな思考的屈折を経ていたからである。三宅がそれに気づいていなかったはずがない。だがそれを問うてしまうと、やはり「吾れ答ふる所以を忘る」しかないのである。あるいは、志賀重昂が「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」で、「西洋の開化を悉く是れ根抜して日本国土に移植せんとするも、此植物は能く日本国土の囲外物と化学的反応とに風化して、太だ成長発達し得べき乎」という疑問をぶつけたうえで、「日本の国粋を能ふ丈け成長発育せしむるの太だ経済的なるに若かざるなり」と主張した(『近代日本思想体系31 明治思想集Ⅱ』8~9頁)ように、海外のものをそのまま移植してもうまくいくものではない。それよりも海外の事例を参考にしつつ日本の良いところを伸ばすべきだ、というある意味楽天的な主張なのである。
 そもそも日本は弥生時代に稲作や鉄器・青銅器の活用など大陸から怒涛のような文明を受け入れている。仏教や儒教もそうであるし、後述するように漢字もまたその文明の一環であった。だがそれらを巧みに「日本化」していった。例えば蓑田胸喜などはその「日本化」を高く評価したうえで、他国の文明を受け入れるには、受け入れる側にも主体性がなければならないと考え、「日本」と言う主体を考えることになるのだが、そこには海外の文明も日本に合うような形で受け入れることができるというある種の楽天性が付きまとっている。それは陸も含めたすべての国粋主義者に共通した傾向であり、そうでなければ日本が古代に大陸文明を受け入れたことや、明治期に西洋文明を受け入れた歴史を到底正当化できなかったであろう。
だが私はここでこの志賀や蓑田の「楽天的」な発想は本当に楽天的だったのか、という大きな疑問にぶつかる。大陸文明や西洋文明は、日本が望んで受け入れたわけではない。当時の情勢から受け入れざるを得なかったに過ぎない。それを自覚してもなお、海外の文明を「日本化」したのだと主張することが、本当に「楽天的」な発想から生まれるのであろうか。
 その答えを出す補助線となるのが、長谷川三千子『からごころ』だろう。長谷川はいきなり「何故かうも「日本的なるもの」は気を滅入らせるのであらうか? どうして自分は生まれ故郷である「日本」という国にいつまでたつても馴染めないのであらうか?」という疑問をぶつける(中公叢書版3頁)。そして、「「日本的なるもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追いつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消えてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山のほうにうもれてゐる」(同8頁)のだと言う。「自分は「日本人であること」といふこの根本の事実にしっかりと目をすゑて生きよう、と決意する。と、まさにその決意そのものによつて、その人は知らぬ間に「日本人であること」から逸脱してしまふのである」(同19頁)。長谷川はこうした日本人の思想的特徴を、漢字を受け入れたことに求める。漢字を受け入れたということは当時の中華文明と言う「異言語による支配」を受ける恐れがあったことに他ならないが、それを徹底的に拒絶して国が保てるはずもなかった。日本人は「訓読」を発明することで、かろうじてこの文化的危機から脱したのだという。しかしそれには、「いやしくも漢字で書かれたものはすべて中国語である」という原則を無視することによって成り立っている。「漢心は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけてゐるのは、自分が知らず知らずの内に、外国崇拝に陥つてゐるといふ事実に、頑として気付かうとしない、その盲目ぶりである」(同53頁)と言う。同様に、明治の「文明開化」の時代にも、欧化政策なのではなく文明を学ぶのだ、と信じ込むことによって危機の脱出に成功したのだと言う。それは「西欧化」ではなく「文明化」だと文化の国境を見ないことで成り立ったのだ。だとすればひたすら「文明化」を主張した福沢諭吉のような人間と、国粋主義者は同じということになってしまうのだろうか。陸羯南のように、生き残るための「文明開化」が一応一段落した時期に日本の国粋主義を主導した人間が、いかなる理屈で「文明」を正当化し、批判したのであろうか。

 福沢諭吉は『文明論之概略』で、文明を「人の精神発達」(岩波文庫版9頁)と捉え、決してそれを地縁によるものであるとは認めなかった。陸の『自由主義如何』もまた、その論理の中にある。両者の違いは、福沢が漢学や国学を馬鹿にするところがあったのに対して、陸はそうではなかったということだろう。というのも、文明を人間の精神の発達と捉える議論は、儒学や国学の中にも明白に見出せるからであろう。
 余談ながら少し『文明論之概略』について語ろう。福沢も漢学や国学を馬鹿にして一掃してやろうと思っていた。にも関わらず、『文明論之概略』の読者層を五十歳以上で視力が衰えた人間を想定し、太平記などと同様の体裁に印刷したという(『文明論之概略』岩波文庫版297頁、富田正文による後記より)。漢学や国学で自己の思想形成をした層に向けて書かれたのが『文明論之概略』だというのだ。これは「儒学や国学なんか学んできた憐れな連中に文明とは何かを教えてやろう」という福沢の尊大な風を感じなくもないが、洋学に凝り固まり、何事も西洋風をまねようとする人間を「開化先生」と揶揄してやまなかった福沢にしてみれば、開化先生のような救いがたい愚か者よりは、漢学や国学を純朴に学んだ世代のほうがまだ救いがあると考えていたのかもしれない。

 陸は「自由主義如何」で以下のように書いている。
 「日本における自由主義は吾輩その起源を探るに難からず。明治維新の大改革は啻に封建制の破壊のみならず、また啻に王権制の回復のみならず、この改革は実に日本人民をして擅圧制の内より脱して自由制の下に移らしめたり。即ち維新の改革は日本における自由主義の発生と言うも不可あらず。しからば自由主義は福沢先生の『西洋事情』より出たるにもあらず。中村先生の『自由之理』より来たれるにもあらず。当時洋学者の機関たる『明六雑誌』によりて現らわれたるにもあらず。征韓論を名として袂を払いたる民選議員の建白書によりて生出したるにもあらず。これらの事実は自由主義の誘導者たりしに相違なしといえども、日本の自由主義は維新の改革に先立ち早く既に日本有識者の脳裏に感染したるや明らかなり。ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか。日本の有識者は欧米人の来航に当り、早くも既に日本国の独立及び振興を策したり。日本の愛国心即ち日本魂は大八洲の威武名誉を海外に輝かさんと欲し、その籌策を探りてついに最も剴切かつ公平なる良謀を発見し得たり。国家権力の統一と個人智能の発達とは、日本の独立に已むべからざるの大政義なりし。日本魂を有するの識者はみなこれを認めて維新の大改革を成就せしめ、しかして自由主義は日本に発動を始めたり」(岩波文庫版『近時政論考』90~91頁)。日本の自由主義は、福沢諭吉がもたらしたのでもなく、中村敬宇(正直)でもなく、明六雑誌でもなく、維新志士の行動によるのだという。自分の国の進路を自分で決める、これが自由主義なのだと言うのだ。
 これは吉田松陰に通じるものがある。松陰は佐久間象山の甥に書簡でこう語っている。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーへード(自由)を唱へねば腹悶医し難し」(奈良本辰也編『吉田松陰著作選』421頁)。三千年もの間独立を保ってきた日本が外国人に縛られる様子は見るに忍びない。ナポレオンのようにクーデターを起こして自由を唱えなければ腹中の悶々とした思いは癒せそうにない、と言った意味だろう。松陰が自ら起すべき行動をナポレオンになぞらえるなどとても新鮮だが、陸の自由主義論もこの松陰の考えの延長線上にいることは理解できよう。陸には松陰の弟子品川弥次郎との関係があった。谷干城や近衛篤麿との関係は公にされていたが、品川との関係は伏せられていた。品川との関係はむしろ谷などより古く、重要な関係であったことが伺える。陸が品川からこの吉田松陰の書簡について教えられていたかどうかはわからないし、「自由主義如何」を書いたときに松陰が念頭にあったかどうかもわからないが、品川を通じて松陰の考えが陸に入ったことも考えられる。

 一方で陸は明治維新後、自由主義がはびこることで格差が開き、拝金主義的な堕落が起こったことをつぶさに見ていた。したがって陸は簡単に自らを「自由主義者」に任ずることはなかった。陸羯南は『自由主義如何』で、「しかれども吾輩は単に自由主義を奉ずる者にあらず、即ち自由主義は吾輩の単一なる神にあらざるなり。吾輩は或る点につきて自由主義を取るものなり。故に吾輩は自由主義もとよりこれに味方すべし。しかれども吾輩の眼中には干渉主義もあり、また進歩主義もあり、保守主義もあり、また平民主義もあり、貴族主義もあり、各々その適当の点に据え置きて吾輩は社交及び政治の問題を截断すべし」(岩波文庫版『近時政論考』103~104頁)と言う。これは恐ろしいほどの楽観である。プラグマティズムとも言えるのかもしれないが、要するにそれが日本人にとって有用であるならば、干渉でも自由でも何でもよろしいと言っているのである。だが、この恐ろしいまでの楽観は、猫の手も借りなければ日本は到底独立を維持できないという悲観のなかから生まれたものとも言える。
 「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって共存して唱える」と言う態度は無節操とは異なる。「良い」と評価する人間(=羯南)がおり、その評価軸を「祖国の興隆」においていることを明言しているからである。

(続く)

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