野村秋介は『さらば群青』で次のように語っている。
私は沁々思うのだが、明日の命を保障されている人など一人もいない。「一日一生」という言葉があるが、かかる覚悟なくしての生涯こそ、無味乾燥の哀れをきわめた生きざまではあるまいかと、私は若いときから思い続けてきた。
戦後日本人は、「死」や「暴力」といった実は避けては通れぬ大命題を、まやかしの平和論とすり替えて、なるべく触れたり直視したりすることを忌み嫌ってきた。
人間は「死」とは無縁であり得ない。社会は「暴力」と無関係ではあり得ない。眼をそらし続けようと思えば思うほど、人間は正気を失い堕落していく。(はじめに)
現代の日本はおそらく物質的には史上最も満たされている時代であろう。にもかかわらず、あるいはだからこそ、何か薄皮をまとった閉塞感が人々の心を覆ってやまない。右肩上がりの時代は終わりを告げ、成熟へと歩き始めた日本社会だが、歩き始めてふと、成熟とは何かまるで分らないことに初めて気づいたような、そんな心境であろう。そして何より、今の日本社会を回している「秩序」は、右肩上がりの時代に作り上げられたものだ。果たしてこの秩序というものを追究せずして、日本は未来に歩みを進めることができるだろうか。秩序のもつ便利さと恐ろしさを、もう一度見直す必要があるのではないだろうか。
秩序とは暴力である。もちろん暴力とは警察とか軍隊といったことだけではない。数の力やカネの力、世俗的権威、あらゆる力がわれわれを抑圧すると同時に、われわれを守っている。そうやって組織と付き合いながら、人々は今の社会生活を送っている。われわれは社会の一部であるが、同時に社会はわれわれの一部でもある。
戦後、経済発展し、日本は確かに豊かになった。だが、豊かになり、社会が複雑化すればするほど、わかりやすい悪辣な権力者が目の前に見えるわけではなくなったにもかかわらず、何かに支配され身動きできない情況が続いている。われわれはその中で、自らの命を超えた大いなるものへの一体感を失い続け、自意識は卑小な小市民の感情に収斂されるばかりである。
我々は見失いかけている大義に思いをはせるべきである。
池田信夫氏のブログは好き嫌いは別として勉強になりますよ。法学関係はまったくダメですけど。
権威は何でも尊重し、天皇崇拝気味のカトリック教会は喜ぶべきか。もともと天皇一族周辺の最上級国民には、昔からカトリックが多いという国柄なのですが。
カトリック教徒になろうとした昭和天皇 : 池田信夫 blog http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html
保守派はどう思うのでしょうね。
私は、義の為、必要なら暴力をもってしなければならないことは、天皇廃絶、天皇一族の精算(liquidate)だと信じております。
Kuantanさん
本書をまだ読んでいないので何とも言えませんが、天皇個人の公式にならなかった私情でどのようなお気持ちがあろうがほとんど問題にならないし、する必要もないと思います。
富田メモ等がほとんど意味がないのと同じです。
逆に言えばそれば天皇が気に食わないというだけでは為政者を後退させることはできないということでもあります。
皇室を重んじる感情とはセレブに対する個人崇拝などではなくして、日本人の歴史性、連続性に対する思いではないかと考えております。
ご返答ありがとうございます。
どうやら貴兄の考えでは、天皇は人でもなければ神でもない、(私からみれば、崇拝者達がこしらえて都合よく利用する)「観念的な中心」にすぎないということのようですね。
しかし私は、天皇は現実に存在する人であり地位だと思います。それは大きな影響力を持つ現実の社会的地位であり、政治的な地位でもあります。さまざまな重要な人脈も持っており、特権層に行き渡る網の目のような血脈も無視できません。
「右」だけではありません。遺憾なことに、合法最左翼の連中も天皇の「リベラル」な言葉や「反戦的な」歌に狂喜し、持ち上げて利用しています。天皇は現実的具体的な、思想をもつ人であり、大きな政治的影響力ももつ社会的存在です。
貴兄の天皇観は、いまだいささか抽象的、観念論的で、具体性がないように思われます。
Kuantanさん
かつてわたしは以下のように書いたことがありました。
>政治的な部分に限定してみると、皇室は政局的に中立な存在であるだろうが、それが政治判断を求められる存在でないかどうかはわからない。というより、天皇は日本社会の「魔術的な拘束力」の上に立つ存在であるがゆえに、その行動が自然に政治的意味合いを帯びるのである。たとえば、東日本大震災の際に陛下がビデオメッセージや被災者支援に注力された。それは真に被災者を慮ってのことだが、結果的に政権与党民主党のお粗末な対応が浮き彫りになり、民主党の政治生命は終わったと言ってよい。天皇陛下のお言葉はなぜそのような重き意味合いを持つのだろうか。それは、今においても天皇と言う存在が決して立憲君主というだけの存在ではないことを示すのではないか。
(「皇室中心の政治論」http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/cat_50023690.html)
私はKuantanさんの「天皇は現実に影響力を持つ社会的地位」であるという考えに賛同します。ただ、同時にその影響力を行使することを慎んむべきだということもまた君徳であったということです。