テロとホームグロウン


 今、東洋・西洋をおおう世界史的動揺は、イスラム過激派がもたらしたものである。彼らは各地でテロ事件を起こし、世を騒がせている。しかも最近では、テロを起こす張本人はイスラム過激派の本拠地である中東世界から来たのではない。ホームグロウンと呼ばれる、移民の子孫がテロを起こしているのである。彼らを単純な過激派とみなすのは物事の表層しか見ない態度である。彼ら移民の子孫をイスラム過激思想に結びつけるものへの考察が必要だろう。

わたしはイスラム過激派に賛同する者ではない。彼らは取り締まられるよりないだろう。だが一方で「テロとの戦い」だと無条件にイスラム過激派を悪とみなす人間にも違和感を感じる。イスラム過激派が処罰されることを認めるためには、以下の三条件を認めることが不可欠ではないだろうか。

 一つ目は欧州の近代化以来の帝国主義による植民地争いが問題の出発点であることを認めることである。中東からアフリカにかけて、欧州の植民地争いにより歴史や文化と無関係に国境線が引かれることになった。それに伴う紛争の歴史はこの地域に大きな混迷をもたらしたことを認めなくてはならない。それが中東から北アフリカに至るまでを紛争の火薬庫とさせているのである。
 二つ目はグローバリズム、資本主義がホームグロウンによるテロをもたらした根本原因であることを認めることである。移民の子孫が自国社会に適応できず疎外され、低賃金労働につかざるを得なくなっている。移民一世では本国よりは生活状態が良くなることや、本国への仕送りの使命感から労働に甘んじることができるが、二世以降はそうではない。言葉もセミリンガル化し高度な事象を理解することは難しく、将来の展望もない彼らが過激思想に染まることも不思議とすべきではないのである。もちろん外国人が即犯罪者であるかのような偏見は慎むべきなのであろうが、それは問題の根本原因をおおい隠すことになってはならない。
 三つめは、わが国に限って言えば、戦後の対米従属体質、特にイラク戦争以後の対米隷属的外交により、わが国も世界に混迷をもたらした張本人となってしまったということを認め、深刻な反省をすることである。アメリカの外交に唯々諾々と従ってきたことで、わが国はフセイン、アルカイダ、ISISと過激化する一方の中東情勢に火をつけた当事者となったのだ。

 資本主義の発達はグローバリズムをもたらしたが、このグローバリズムは人々を故郷喪失の憂き目にあわせた。それは移民により故郷から引きはがされた人々を指すのはもちろん、資本主義的開発で故郷が様変わりし、すっかり民族の面影を破壊されてしまったことをも示す。祖国の共同体が機能しなくなってきたことが、資本主義即ちグローバリズムがもたらした負の側面である。ホームグロウンの問題はその極端な事例として注目されるべきであろう。

 移民も定着してしまえば、低賃金労働を生まれながらに押し付けられなければならない理由を持たない。その不満にテロ組織が忍び寄り、心の隙間を利用するのだ。大事なのはその「心の隙間」をもたらしている資本主義、グローバリズムに対する疑念を持つことである。

 逆に考えれば移民の心の隙間に漬け込む過激派がもしいるならば、ことはイスラム過激派に限定されないということである。例えば今後、日本の支那人移民二世、三世が支那本国の反日思想に共鳴し、ホームグロウンテロを起したとしたら…。たびたび言うが、外国人への単純な偏見は慎むべきである。だが、同時に根本原因が解決されないのならばそういったことも起こる可能性があるのではないか。もちろんこれはわたしの妄想であることを願ってはいるが…。

 根本原因に目を向けることなく、目先の武力によりテロ組織を壊滅させるだけでは何の解決にもならない。「テロとの戦い」を叫ぶ前に、「なぜ彼らがテロに走ったか」、思いをはせるべきではないだろうか。

コメントを残す