価値観外交という薄甘い世界観


 本日は坦々塾新年会に出席させていただきました。二次会で一言発言する機会を戴いたので以下にその内容を記します。
 実際はもっと拙いものでしたがこういうことが言いたかった、ということでご容赦いただければと存じます。

―――

 わたしは戦後70年の安倍談話に違和感がある個所がありまして、違和感だらけなんですが、本日のシンポジウムで登壇者がご指摘されなかった部分について述べたいと思います。以下その違和感のある個所について読み上げます。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携え

 と書かれているのです。

 外交は自由、民主主義、人権などという薄っぺらな価値観で決まるものではなく、国際情勢や国益など、さまざまなことを総合的に判断して決められるべきものであります。もちろん不自由ではない方がいいでしょうし、独裁者なんかいない方が良い。自国民を迫害する政権など論外であります。しかしその程度のことを外交的価値観として、しかも普遍的なものとして打ち出すことに大変強い違和感を覚えます。

 この論理構造、どこかで見たことあるなと思ったら、日本国憲法前文に「政治道徳の法則は普遍的なものであって」云々と書いてあるんです。これを見ても、わたしは安倍談話は戦後レジームの克服に何ら寄与していないと思います。ゆえに支持できるものではないと考えます。

――――

 「自由、民主主義、人権」とか「法の支配」等を普遍的な価値観とみなす価値観外交というのはアメリカのネオコンが生み出した概念だと言われる。それに安倍や麻生といった自民党の主要政治家が共鳴したのだと言われる。それはその通りであろう。だが同時に東京裁判史観や日本国憲法を押し付けた世界観とも不思議と共鳴することも忘れてはならないのではないか。安倍談話ではそれを「国際秩序への挑戦者となってしまった過去」と、戦前にまで当てはめているのである。全く噴飯物の歴史観である。と同時に価値観外交は、利害関係や謀略渦巻く国際政治のどろどろした部分を何も見つめていない。ただ、「自由、民主主義、人権」を共有する国と手を携えましょう。それで世界平和が成し遂げられるのですという全くのお花畑的世界観に貫かれていることも指摘しておかなくてはならない。

 安倍総理は安倍談話の最後を「終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。」と結んでいる。「そのような日本」とはどのような日本か。どう読んでも安倍総理は「「自由、民主主義、人権」の価値観を共有する国と手を携えることで世界平和に貢献する日本」を思い描いているとしか読めないのである。このような子供でも信じないようなことを平然と言える総理大臣で日本は大丈夫なのだろうか。外交上の深謀遠慮があるのかもしれない。それはわたしにはわからない。だが、それにしてもこのような近代的価値観に対する疑いの念が全くない世界観はあまりにも軽薄で、到底承服できるものではないのである。

コメントを残す