政府と愛国心との関係


 内村鑑三は「基督教は宗教にあらず」という言葉と、「天国には教会はない」という言葉を残している。おそらくこの二つの言葉は同じことを意味している。「宗教」、「教会」といった俗世間の枠組みは、人が何かを強く信じる心、すなわち信仰を助けるためにあるのであって、「宗教」や「教会」のために信仰があるわけではないということである。人智で計りがたいものへの敬意、それが信仰である。世俗的な組織は、ときに信仰の力を大いに発揮する力ともなるが、信仰を妨げる力ともなる。政府と愛国心との関係もまた同様である。

 政府はときに愛国心を発揮するための最良の機関である。政府あってこそ国が保たれ、郷土は存続し、伝統は引き継がれる。政府がもたらす秩序なしでは、人間社会はすぐに混乱し、暴力と不信が世に広がってしまう。秩序あってこそ愛国心を発揮できる。秩序なしでは、人々は自らの身も守るのに精いっぱいで、世のことなど考える余裕はなくなってしまうだろう。
 一方で、政府が愛国心を歪ませることもありがちなことである。政治はどこまでも妥協の世界であって、理想を実現する場ではない。政局が理想を歪ませるのである。自らはこうすべきだ、という高い誇りがあったとて、政局は簡単にそれを裏切らせる。例えば今の安倍政権がおかしいと思っても、「安倍さんのかわりの人がいるのか」と言われて押し黙ってしまう。「今はそれをいうときじゃない」そんな言葉の援護射撃で黙らされてしまう。
 だが本当はそのようなことは何の関係もないはずだ。一国民はただ理非曲直を明らかにし、旗幟を鮮明にすれば良いのであって、それをいかにもフィクサーにでもなったかのようにふるまう必要はどこにもない。ときおり安倍政権を批判し愛国の道を語る人間に対し「現実的でない」という批判がぶつけられるが、一国民に過ぎない人が総理大臣の人事まで検討に入れて、「今それをいうのは現実的ではない」というほうがはるかに現実が見えていない態度ではないだろうか。

 人はいとも簡単に世俗組織に取り込まれてしまう。そんな世間に擦れてしまいそうになる自分を救うのは、信仰以外にはない。繰り返すが、信仰とは宗教ではない。信仰は信念という言葉と近い。人は自らの心にだけは嘘をつけない。自らの心だけが本当の答えを知っている。
 信仰は倫理や大義という言葉とも近しい。倫理や大義は共同体の中で醸成され、先人から受け継ぐ貴重な遺産である。その遺産は社会に働きかけるきっかけとなると同時に、社会から個人の心に働きかけるきっかけともなる。社会とは、自分の外側にあるものではない。自分は社会の一部分であると同時に、社会は自分の一部分なのである。

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