フェノロサ伝説


 フェノロサといえば岡倉天心などとともに日本美術の復興に努めたお雇い外国人という印象を持っている人も多いだろう。フェノロサは西洋崇拝の時代の中で見捨てられてきた日本美術を高く評価した「恩人」であるという。だがその俗説は本当だろうか。

 フェノロサはたしかにお雇い外国人として日本に来た。だがその専攻は政治経済学であり、美術は学生時代にかじったことがある程度でしかなかった。ただしフェノロサは美術品の収集には熱心だったようで、フェノロサによって欧州に転売された日本美術品は数多く、それによりフェノロサは巨利を得ていたようである。
 フェノロサが岡倉天心らに日本美術の素晴らしさを説明し、感化させたのではない。その逆で、岡倉らがフェノロサという看板を担ぎ上げたのである。そもそも明治十年代から欧米崇拝への批判は少しずつ広がりつつあった。そんな中で「外国人も日本美術の素晴らしさを認めている」という傍証に担ぎ上げられたのがフェノロサであった。フェノロサが日本美術について書いたものには、その「秘書」役たる岡倉天心の手が入っている。「秘書」がゴーストライターとして書き上げた可能性も否定できないのである。

 岡倉とともにフェノロサを担ぎ上げた人物に狩野芳崖がいる。芳崖は後に「非母観音像」を書いて有名になるが、当時は明治維新で落ちぶれた江戸幕府御用絵師の家柄、狩野家の末裔に過ぎなかった。山師的雰囲気のある天心と没落絵師の芳崖が、西洋崇拝見直しの機運に乗じて一発逆転を狙ったのが、「フェノロサ担ぎ上げ」なのである。フェノロサ一派は文人画などの復興には反対で、日本画を強く推奨した。その人脈から考えても勘ぐってしまうような評価である。

 フェノロサと天心は後年仲たがいする(その時芳崖は既にこの世を去っている)。国粋主義の復活のために担ぎ上げられたフェノロサであったが、志を一定程度果たしてしまえば彼ら外人の力など無用というわけである。フェノロサはお払い箱にされ、ロンドンで客死している。

 「フェノロサという稀有な感性を持つ外国人により日本美術が再評価され、復興された」。これは天心と芳崖が描いた神話である。その実は本人は美術品の転売にいそしむ人間であったし、日本美術に関する発言は天心のものの可能性が高い。フェノロサ伝説を信じているうちは、まだ天心と芳崖という二人の男の掌の上で踊っているようなものである。

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