崎門は君臣の絶対的忠義を重んじた。それは師弟関係や親子関係にもおよび、上位者に尽くすべきことを説いた。それだけだとしたら、崎門は陳腐極まりない学問であろう。師匠さえいれば弟子は必要ない、その程度の存在であっただろう。だが、そのような思想が世に大きな影響力を持つはずがない。変革のエネルギーにもなりえない。崎門には上位者への献身的精神とともに、上位者をも恐れない強い心を問うたと考えるべきではないだろうか。
ここで思い出されるのは崎門の三傑と言われるうち、浅見絅斎も佐藤直方も山崎闇斎から破門され、葬儀への出席もかなわなかった人物だということだ。二人は師匠の説に従わなかったからということで破門されたように、崎門は師匠の考えに弟子は従うことを要求される。だが同時に二人に限らず、崎門の有名な人物には師匠の説に従わなかったことで破門された人物もまた多いのである。
崎門は理論としては師弟間の序列を示したが、一方で、一介の思索者が自ら大義と信じたことは、たとえ師の説と違ってもそれを貫くという生き様を見せた。この両方の側面を考えなくてはならないのではないか。
山崎闇斎は「たとえ敬愛する孔子、孟子が攻めてきたとしても(日本人として)孔孟と戦うべきだ」という教えを説いた。通常この逸話は国家への忠、日本精神の唱道として受け取られてきた。だが違う読み方も可能ではないか。
山崎闇斎は朱子にかぶれて常に赤いものを身に着けていたような人間だった。当然、儒学を篤く信じていた。その闇斎が「孔孟とも戦え」と述べたのは、「たとえ自らが道を教わった師匠であっても、己の信念に反するならば対峙しなければならない」と説いたとも言える。崎門は君臣師弟親子の上下関係を説いたが、同時に一介の思索者としての矜持を、その生きざまで示していたのである。
だからこそその思想が後に世を変革する力ともなったのである。