新元号公表の陰で…
四月一日、新元号公表の陰でひっそりとある法律が施行された。改正入管法である。これにより外国人労働者の就労が拡大される。日本政府は、フィリピン労働雇用省のシルベストル・ベリョ労働雇用相と会談し、「特定技能」を有する外国人材に関する協力覚書を締結した。日本にとってフィリピンは「特定技能」制度に係わる協力覚書の最初の締結国となった。
ベリョ氏は地元紙に対して、「改正入管法の施行によって、新たに10万人以上のフィリピン人労働者が日本で就労する可能性がある」とコメントしている。たしかに「移民はいない」との建前を掲げながら、実際は「留学生」や「技能実習生」として外国人労働者が管理されず入国就労している現状は問題であった。政府は、「特定技能」を有する外国人労働者に対して日本人と同等またはそれ以上の賃金が支払われることや、悪質な仲介事業者の排除等を約束している。同様の覚書をネパール、カンボジア、ミャンマーの四カ国と交わしているようだ。
だが実際は企業や自治体の受け入れ態勢の整備は整っておらず、拙速な対応というべきであろう。日本語教育の問題や二世のセミリンガル化の問題、信仰の多様化への対応など、課題は多く残っている。
外国人労働者を入れたい動機
そもそも外国人労働者がなぜ必要なのかといえば、経済界を中心に「人手不足」の現状があるからだ。だが、日本人でも就労したくてもできない人は大勢いる。要するに「超低賃金、長時間労働で働く人材」が不足しているというだけのことである。すなわち、日本にやってくる外国人労働者が着く職は、「超低賃金、長時間労働」ということになる。
例えば昨年失踪した技能実習生は、過去最多の九〇五二人に上っている。この背景にも低賃金や長時間労働が顔をのぞかせている。違法な労働条件を外国人労働者に強いる企業が後を絶たないのは、外国人労働者を入れる動機が「最低賃金」という法的制約の抜け道になっているからに他ならない。こうした外国人奴隷状態の根本解決に、今回の法改正はなりえるのだろうか。仮に本当に違法な労働条件を取り締まっても、留学生や技能実習生などの「抜け道」がなくなったわけではない。企業が外国人を入れたい動機が「低賃金、長時間労働」である限り、問題は一向に解決しない。それどころか、さらなる悪化を招きかねない。
東京都港区の寺院「日新窟」のベトナム人尼僧ティック・タム・チーさんは、メディアの取材に以下のように語った。「日本人は西洋人は尊敬するが、アジア人は見下す。同じ人間なのだから平等に扱ってほしい」。
ヨーロッパの移民の失敗
かつてヨーロッパはアフリカを中心に多くの移民を受け入れた。その結果が今の欧州の政治経済の混乱、テロの勃発である。「低賃金、長時間労働」を動機に外国人労働者を入れた結果、入ってきた外国人の憎しみを買い、手痛いしっぺ返しを食らっている状態である。当然というべきである。
特に問題なのは、人種構成が大きく変わることで文化的死滅を免れないということである。かといって彼らに生まれ育った文化を捨てさせるような同化政策など取れるはずがない。日本文化は早晩死滅することになるだろう。
文化の軋轢は、異なる文化への寛容性を失うことにつながる。それを抑えるのは、警察権に代表される政府の武装強化である。「多様性」を目指すことでかえって強権支配が訪れ息苦しい世の中になってしまうのである。さらに言えば、若い力をとられる途上国の経済にも、短期的にはともかく長期的には決してプラスにはならない。
大亜細亜の理想
『大亜細亜』誌で度々引用し、論じていることではあるが、重要な問題なので再度繰り返す。
明治十五年生まれでメッカに日本人で初めて巡礼した、日本人イスラム教徒の草分け的存在である田中逸平は以下のように主張する。アジアは古来聖人が命を受け、大道を明らかにし、広めてきた場所である。大アジア主義の「大」とは領土の大きさのことではない。道の尊大を以ていうのである。しかし西洋文明が押し寄せることで、智に偏し物欲が人を苦しませている。大道は廃れんとする中、大アジア主義を問うときが来たのである。
田中は大アジア主義をアジア諸国の政治的外交的軍事的連帯に求めない。はたまた白人に対する人種的闘争にも求めない。大道を求め、それぞれの文化で培った伝統的思想(「古道」)の覚醒に努めるべきだというのである。日本においては「神ながらの道」がそれにあたるという。田中はイスラムにもその「古道」が流れているのを感じ取ったのである。
伝統的信仰を取り戻し、侵略者を追い払うことを通じて、立国の精神を共有することが大アジア主義の志であった。それは必然的に政教一致の政体を模索することにつながるであろう。
だとすれば目指す道は「移民」によって生まれ育った文化をまぜこぜにしてしまうことではない。各国、各民族がそれぞれの場所でそれぞれの文化を輝かせるよう連帯を進めていくべきなのである。
財界のどす黒い下心にまみれた移民政策はアジア主義に合致するものとは思われない。それより「立国の精神」の再確認こそ肝要と言うべきである。