「フランス革命から250年、伝えられなかった真実を見直そう」に参加


昨日は「フランス革命から250年、伝えられなかった真実を見直そう」に参加いたしました。
フランス革命は大量虐殺と恐怖政治でしかなかったわけですが、それだけでなく倫理の不在、信仰の軽視、人権の盲信、世論の跳梁、経済的自由追求の強欲という近代思想が人類に蔓延するきっかけとなった出来事でした。
アジア主義にはこうした近代革命思想を打破し、古き良き自国文化に立ち返ろうという側面があります。 こうしたときアジア主義はAU(アジア連合)に甘んじるのでも、日本を含め既存のアジアの国のどこにもコミットするものでもなく、すべての国の文化の覚醒を企図するものとなります。興亜論者田中逸平が、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道(伝統的思想)の覚醒にあると主張したことは重要だと思います(『大亜細亜』創刊の辞ご参照https://www.google.com/amp/s/gamp.ameblo.jp/greaterasia/entry-12176493523.html)。
近代革命思想を打ち捨て、伝統精神に還ろうという主張が、かえって激しい変革思想とならざるをえないことも興味深いところです。
また、先般『権藤成卿の君民共治論』が刊行され、わたしも携わらせていただきましたが、権藤の「社稷」とか「自治」という主張にも、近代革命思想の前提を放棄し、信仰と共同体に還ろうという意図を持ったものでした。
なお、シンポジウムの休憩時間にはジェイソン・モーガン先生と蓑田胸喜についてお話ししました。蓑田は権藤を痛烈批判していますが、両者の問題関心はそう遠くなかったと思います。
余談ながらこうしたことはままあることで、橘孝三郎は加藤完治を批判していますが、両者ともいわゆる農本主義的思想を訴えたことは変わりません。
われわれは現代に生きるものとして、フランス革命に始まる近代革命思想の跳梁跋扈に対しどう対峙するのか、考えていかねばなりません。

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