いかに歴史を描くか


実証史学の不毛について再三書いてきた。

実証史学は「実証」の名のもとに歴史の表層を撫でて重箱の隅をつつくばかりで、歴史上の人物の深層についぞ到達しない。いや、到達することを拒絶するところすらある。
たしかに歴史史料に描かれることは過去の結果に他ならない。そこに込めた理想など後生の人間の勝手な推測だと言えないこともない。
しかしだとしたらわれわれはなぜ歴史を学び、いかに歴史に対するのであろうか。
あるいは現代を論じている場合でも同じである。
時事論、情勢論が持つ非人間性を見ないわけにはいかない。それは人間の理想を差し置いて現実の力関係で決まる世界だからだ。歴史は、そうした力の顛末をたどるだけとも言える。
そこにはグロテスクな世界だけが広がっている。
人間はそうしたグロテスクな力関係だけに甘んじる生き物ではない。
泥土にまみれても、なお美しい理想の花を咲かすのもまた、人間の実像ではないだろうか。そこを見ずに、人間を描いていると言えるのか。
おのれ自身どのような人でありたいかという希求なくして歴史に向かうのは、蔑むべき態度である。
歴史は一面で力関係の所産であるが、一面で魂のうめきとでも言おうか、ある人間が抱いた情念の軌跡である。
情念の史的所産を仰ぎ見ることもまた、必要な行為ではないだろうか。

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